富山医科薬科大学開学20周年記念シンポジウム「今,大学は何をなすべきか」の議事録
シンポジウム担当:第2生理 田淵英一
平成7年10月14日(土)9:30〜12:30,インテックビル・タワー111・スカイホールにて,富山医科薬科大学開学20周年を記念して,シンポジウム「今,大学は何をなすべきか」が開催された.この会は,”現代社会における大学の存在意義と役割を幅広く多角的に検討し,富山医科薬科大学の将来について展望すること”を目的として,主催が富山医科薬科大学医学部同窓会,共催が富山薬窓会,富山医科薬科大学医学部後援会,北日本新聞社で行なわれた.パネリストには,選考の末,以下に示した各分野で活躍中の著名な先生方をお招きすることとなった.
東北大学・総長 西澤潤一氏
電通総研(株)・社長兼所長 福川伸次氏
桐朋学園大学音楽部教授および声楽家 木村俊光氏
富山県医師会代表・富山県立中央病院・院長 舘野政也氏
富山医科薬科大学・医学部・神経精神医学・教授 倉知正佳氏
富山医科薬科大学・薬学部・薬物生理学・教授 竹口紀晃氏
富山医科薬科大学・和漢薬研究所・臨床利用部門・教授 倉石泰氏
司会:富山医科薬科大学・医学部・第1内科・教授 小林正氏
また,以下に当日配布されたプログラム要旨およびシンポジウムの議事録を紹介します.
<プログラム要旨>
<シンポジウム議事録>
本シンポジウムは,富山医科薬科大学開学20周年記念事業の一環として企画されました.本学関連団体が協力して母校に祝意を表することができるのは大きな喜びです.
さて,大学は学問の府といわれております.しかしながら,近年,その大学が資格等を得るための専門機関としての側面ばかりが強まっているとの批判もあります.われわれの生活を変えるような科学技術の革新や国際情勢の変化など,多様化,複雑化する社会にあって,大学は何をなすべきか.その果たす役割を多角的に,検証し学問教育の府としての存在意義をこの記念の年に問い直してみたいと思います.
パネリストには,産業,教育研究,芸術,地域医療,各界の代一人者の先生方に御出席を賜ることができました.御参集の皆様とともに,二十一世紀に向けての大学の展望を啓くことができれば幸いです.
教育は,原始時代からすでに行われていた.60万年前に人類が火や言葉などの文化を持ち,知識を伝えるという行為に,われわれは教育の源泉をみる事ができる.紀元前3千年頃になるといくつかの地域で文明が見られるようになる.そこでは,文字が発明され,人類は世代を越えて文化を伝授することができるようになり,知的な進化を遂げてきた.一方,教育は,11世紀より以前は家庭もしくは修道院で行なわれていたが,12世紀にはいると産業の発展に伴い教育に対する需要が生まれ,教授所と言われる教育の場が出現し,1158年にはイタリアに,ボロニア大学が創設された.アメリカでは,コロンブスによる大陸発見後100年以上の歳月を迎えて1636年にハーバード大学が設立された.
日本では,約20万年前に大陸から移住してからずっと独自の文字を持つということがなく,中国大陸から移入した漢字という文字を国語として用いていた.紀元後3世紀にはいると日本に教育形態が見られるようになり,602年には私塾という教育の場が出現した.この教育の場の出現は,西洋の教授所よりも数百年早い.17世紀にはいると寺子屋や私塾のような教育施設が多数でき,1630年には現在の文部省の前身である書院塾舎が作られた.
明治維新後は,江戸幕府の鎖国政策のために欧米諸国に比べて著しく遅れた文化を取り入れるため,文部省という教育行政専門の機関を設置して日本政府が積極的に教育の指導に当たった.その後,明治政府が,"富国強兵"
と"文明開化"
政策をとることにより,日本は急速な経済発展を遂げていくと同時に,次第に西洋崇拝の夢から目覚めて国家主義思想を帯び,ついに第一次世界大戦および第二次世界大戦の勃発をみることとなった.第二次世界大戦後,日本はアメリカの指導のもと,民主主義路線を歩んでいき,現代を迎えている.そして,われわれの大学,富山医科薬科大学は今から20年前の1975年に一県一医科大学という構想の基に,富山大学薬学部と合併して設立された.
以上のような多様な歴史的背景の上に現在の教育体系および大学が成り立っているが,明治維新以降,われわれは急速な文明の進歩を遂げてきたが,その反面,軽視されてきたもののひとつに教育があるのではないだろうか?
○講演1「これからの日本の高等教育を考える」 — 福川 伸次氏
教育の専門家でない私からは自分の社会の実体験から感じる高等教育への期待という面からお話ししたい.
先月,アメリカの大統領補佐官を勤めたブレジンスキー氏にお会いしたが,彼は常々「来世紀は管理不能の時代となる恐れがある」と述べている.世界は今大転換の時代を迎えているといえよう.古い秩序は崩れたが,新しい秩序が見えてこない.国際社会のバランスは崩れ,国連への期待も様々な見方がある.とはいえ,最近の世界は国際機関の役割と民間の力が世界の政治を動かす原動力となっていることは確かだ.世界の求心力が複雑となり,経済もボーダーレス化して競争も激化し,創造的,かつ質的な開発競争の時代となった.だからこそ,日本も改革が必要だ.
これまでの日本はプロセス・イノベーション中心だった.しかし,これからはプロダクト・イノベーションが課題となる.つまり,知的なイノベーションが求められているということだ.しかし,今の日本企業の体質は旧態依然であるし,従業員もまた古い.いずれ現在のホワイトカラーは情報システムにとって代わられるだろう.
最近,経済の空洞化とうことがよく言われる.これは主に日本企業が外国へ進出することを指して使われているが,外国企業が日本から出ていく傾向にあることも問題だ.これは日本の社会に規制が多いこと,コストが高いこと,語学力が弱いこと,そして,日本の文化が異質なものを受け入れない性格があることなどによるものだ.
つまり,これからの日本は,一つに質的なイノベーションを必要としているということ,もう一つにはグローバリゼーションを身につけなければならないということだ.アジア経済との関係も大きな課題だ.周知のように,アジア経済は急速に発展している.しかし,これが無秩序に拡大すると,各国の工業生産が過剰となり,また,資源エネルギーの不足と環境の破壊を招く恐れがある.日本はアジアの一員として,創造的な生産を指導し,アジアとの共存を図らなければならない.
情報化社会の進展も,日本の大きな課題といえる.情報化は停滞する技術のブレークスルーに役立ち,その情報が共有されれば,世界秩序の安定化にもつながるからだ.これからの日本の技術の方向は,「アートの時代」だと思う.アートとは技術と芸術が融合したもので,それは産業と文化の融合でもある.
これからの日本がどうあるべきか,ということをここでまとめると,第一に,日本がメガ・トランスファーマーションにどう役立つことができるか,第二に,人類に役立つ知的資産を高めることができるか,という二点に集約されるのではないかと思う.
そこで,テーマであるこれからの日本の高等教育のあり方についてだが,こうした大転換の中で,新しい価値を生み出すことのできる人材が必要とされている現在,高等教育の役割は大きい.そこで私は,
(1)高等教育の戦略性を明らかにすること.
(2)研究基盤を拡大・深化させること.
(3)自然科学系・理科系を重視すること.
の三点を主張したい.
教育の戦略性,というのは,社会のニーズを知り,それに添った教育をすべき,ということだ.いま,企業側は個性的で国際的な人材を必要としている.また,21世紀初頭の日本のテーマであるマルチメディア化が定着するかどうかも教育にかかている.これまでの教育に対するニーズはマスのニーズを重視したものだったが,今後は個のニーズも重視しなければならないだろう.
研究基盤を拡大するためには,産・官・学の交流と国際的な交流を促進することが大事だ.自然科学系の教育現場は深刻な研究費不足に悩まされている.学生たちの理工系離れを招いているのは問題であるが,そこには大学側の問題も多いことを指摘したい.
○話題1「ドイツの声楽音楽と日本の音楽大学」 — 木村 俊光氏
カラオケはドイツでは受けないだろう.それは,ドイツ人が他人のマネを嫌うからだ.日本では,持ち歌の歌手に似ていることで評価するが,ドイツは違う.実はもう一つカラオケがドイツに受け入れない理由がある.それは,ドイツには結構オンチがいるからだ.偉大な音楽家を輩出した国にオンチがいるなんて信じられないかもしれないが,事実なのだからしかたがない.なぜオンチがいるのか,それはドイツにおける音楽教育が選択科目だからだ.その点,日本の教育は素晴らしい.だからといって,日本の音楽教育全体に問題がないということではない.
日本の大学における音楽教育は,一般の大学と同じだ.単位を取って卒業すれば音楽士となる.しかし,音大を卒業したからといってすぐプロで音楽家になれると思っている人はいないだろう.だから,海外へ留学することになる.驚くべきことに,今ミラノで声楽を学んでいる日本人は7百人はいるそうだ.そのうち,やがてプロとして活躍できるのは,せいぜい一人いればいい方だろう.ウイーンのある大学では,40人のオペラクラスのうち30人が日本人という例もあるほど日本人の留学生は多い.
これだけ日本人留学生が多いと,どういう問題が起きるか・・・.まず,日本人は言葉の問題があるから日本人だけで生活し,グループができる.ミラノだけではなくどこの都市にも日本人留学生のグループがあって,グループ間の抗争さえ起こるほどだ.
留学は別の問題もある.欧米人の骨格と日本人の骨格とは基本的違う上に,国語も違うため,発声は大きく異なる.これを忘れて無理をすると声をダメにすることにもなる.
ドイツでは15歳から専門学校で音楽教育を受けることができる.普通の高校を卒業してから社会へ出て学資を稼ぎ,音楽大学へ入るというケースも多い.ドイツと日本の高等音楽教育の違いは,ドイツでは一律のカリキュラムではなく,グレード制で,能力に応じて教育が進み,優秀な学生には国の援助があることだ.
もう一つの違いは,日本の教育がケナして育てるのに対し,欧州では良いところをほめて育てる教育であることだ.だから,日本人が欧州へ行くとほめられてテングになることもある.
4年間ですべてのカリキュラムを履修させようとすることで,大学側だけでなく,学生も4年間だけで結果を出したがる.さらに,手っ取り早くCDで高名な声楽家の歌が簡単に聞けるから,ついマネをしてしまう.コンクールの審査員をしていると,この人は誰それのマネだ,ということを感じることが多くなった.
声楽家という一分野に限った発言として理解してほしいが,高等教育では,学生から隠された能力を引き出すことはできても,センスを教えることは不可能だ.努力でセンスを追い越すことはできない.音楽教育の教師の役目は,「センスがないからやめなさい」ということもそのひとつかもしれない.
○話題2「これまでの教育とこれからの教育」 — 倉知 正佳氏
まず,これまでの教育についてであるが,例えば,日本の英語教育については,読解が中心で実践性に乏しい点がよく指摘されている.これは,英語だけの問題ではないのであって,理解中心の教育というのは,明治以来の日本が西洋文化を急速に摂取するためには大変有効な方法であった.しかし,これからの教育では,思考力,表現力や将来の創造性を養い,実践性を重視することが望まれる.そのための教育改善に,大学のスタッフ自身の創造性も求められている.ここでは,これからの医学教育において重要と思われる四つの項目について述べたいと思う.
第一は,何が重要かを見る目を養うことである.ある学生達に英文テキストの翻訳をさせたところ,イタリック体で書かれてある重要な部分を抜かして訳してきた.このように,周辺的な作業に追われ,難しいからといって重要なことを棚上げにしてしまうことがないように注意する必要がある.利根川さんも言っておられるように,若い時に,本当に重要なものを重要と判断できる能力を身につけることが大切である.重要なこととは基本的なことでもある.学生には各分野の基本,常識的事柄を十分に習得してもらう必要がある.そのためには,試験問題に,基本問題を多く出すのも一つの方法である.
第二は,自分の頭で考えるということである.自ら調べ,自ら考えることが高等教育の基本である.本は何も早く読むのが良いとは限らない.良いテキストを選んで,良く考えながら読むことを学生諸君に奨めたい.
第三は,医学における総合的判断の重要性である.ハリソンの内科学の冒頭に「医学の実践とは,サイエンスとアートとの結合である.サイエンスの役割は明らかである.しかし,さまざまな徴候や検査データから重要なものを抽出し,評価することが臨床医の毎日の決断に含まれている.このような医学的知識,直感,そして判断の組合せが医学におけるアートである」と述べられている.ここでのアートとは,医療の現場における総合的判断力のことである.実際の医療の場で基本的な知識をフルに活用しながら,自分の頭で現実問題の解決にあたること,それによってこのような判断力が養われると思う.
第四は,学生の自主性を重んじた教育である.テュートリアルシステム(学生が自主的に勉強し,発表し,討論し合う方法)が,近年の医学教育に導入されてきている.新カリキュラムの統合講義など,是非この方法を取り入れてほしい.それによって,学生の体系的な思考力と自主的な問題解決能力が養われると思う.
思考力や創造性を重視するのは,人間の脳がそのようにできているということと,人間の尊重という原理に基づいているからである.一人々々の人間が大事にされなければならないということから,そのオリジナリティを尊重するということが生まれてくる.それは,教育における個性の尊重であり,人間性の回復ということになる.
○フリートーク
小林 これまでの講演で,これからの日本の高等教育がどうあるべきかについては,個性,国際性,自主性,感性を重視すべきだ,ということが浮かびあがったように思う.
福川 国際性を養うには言葉の問題が大きい.留学させても英語がモノになるのには3分の1,内容まで伴うのはそのまた3分の1でしかない.また,論理的な思考力も問題だ.国際的に通用するには,表現方法と中身の両方が大切になる.これからはもっと実践的な語学教育を推進し,プレゼンテーションのしかたも教えなければならない.日本人はディベートを嫌う.討論教育をしないから,自己表現が身に付かない.日本は異文化との接触に慣れていない.だから,基本となる語学教育と,その周辺を高めることが大切だ.
木村 国際性をどう身につけるか,という問題では,高等教育よりも初等教育に課題がある.語学教育は6歳から始めよ,というのが私の持論だ.早い時期から教育すれば,自然に語学がインプットされる.それと,早くから外国人と触れあう環境を作ることも大事だ.
倉知 ディベートが苦手,ということについていうと,学生もよい考えを持っているのだが,黙っていることが多いように思う.なかなか発言しないのは,そういうようにしつけられているからだ.だから,教師の側から手がかりを出して,発言を引き出してやることが大事になってくる.まら,教員どうしが自由に討論することも,学生が発言し易い環境作りには大切なことだ.
小林 学生の個性,オリジナリティが高等教育によって引き出せないとしたら,どこに問題があるのか.それは日本の知識重視の詰め込み教育に問題があるのではないか.今回のシンポジウムは高等教育がテーマだが,大学に入る前の教育に大きな問題がある.今,大学がしなければならないことは,学生の総合的判断力,思考力,国際性を高めることだ.
(フロアからの発言)
佐々木学長 大学以前の教育について指摘があったが,原点である大学入試一つをとっても,高校の教育課程が変更されると入試も変えざるを得ないなど,大学は入試について受け身(パッシブ)な状態だ.日本の教育全般については,集団主義的なマス教育が求められてきたが,大学だけで解決できない問題が多く,教育全般について根本的に見直す時期に来ている.しかし,残念なことに,今の大学は教育改革に対する発言力を失っている.
小林 これからは,大学が大学のことだけでなく,初等・中等教育にも発言する必要がある.
○話題1「日本とアメリカとの研究システムの違い」 — 倉石 泰氏
大学の使命はいうまでもなく教育と研究にある.大学教育が高校までの教育と異なるのは,研究の現場で教育が行われているということだ.そのため高度な研究が必要だろう.その成果を一般に広めるための論文が,いかに他の世界中の研究者に引用されるかに評価があると思う.大学にとって,研究活動のあり方は極めて重要な問題だ.
統計によると,科学技術に関する発表論文の40%はアメリカが占める.日本も論文数では世界第2位と健闘しているが,論文の引用度,つまり,発表された論文がどれだけ重視されているかの指数については残念ながら高くはない.論文の引用度指数は被引用件数を発表件数のシェアで割って算出するが,アメリカ,イギリスが高い.日本は論文数では負けていないが,インパクトは弱い,ということだ.それは独創的な研究が少ない,ということでもある.
テーマである日本とアメリカの研究システムを比較すると,日本では研究活動の多くを大学院生が担っていることが統計でわかる.しかし,アメリカの場合はPD(ポスト・ドクター),つまり,一人前の研究者が研究の中核となっている.また,研究補助者(技官と秘書)もアメリカと比べて日本は少ない.
こうした研究体制の違いから,日本では学生に単位を取得させる必要上,結果の得易い研究テーマに流れる傾向がある.また,大学院生の卒業によって研究が途切れ,せっかくの独創的なテーマが継続して研究できない,ということにも陥る.
その点アメリカではPDが研究の中核であるため,大学院生はすぐにその研究室の研究をやる必要がない.最初の1,2年はもう少し広い目で自分の研究に必要なことを様々な部屋から学び取り,それから自分の研究テーマに取りかかるので,何かの対応に非常にスムースであるという利点がある.従って,日本でもPDの制度を導入する必要があるのではないか.
○話題2「これまでの研究とこれからの研究」 — 竹口 紀晃氏
医療の将来を考える時,研究の進展なしでは人類は破滅の危機に陥るとさえいえる.エイズ,ガン,人口爆発的増加,環境悪化などの諸問題や,新たな,そして未知の病気にも対処しなければならなくなるだろう.人類の歴史を振り返ると,知的な活動のネガティブな面で,新しい病気が出現している.人間としてそういった問題を抱え続けて,かつ,これから研究は進展していくだろうと思う.我々は,将来を担う若い研究者を鼓舞して行かなければならない.
そこで,これからの研究活動をどのように進展させるかだが,研究費などの資金援助を得る必要性からも,今後は大学の研究も一般の人々の支持を得なければならないと思う.特に日本においては必要であろう.日本の大学の研究は,官主導であり,また企業からの援助で運営されてきており,個人からの援助は無いに等しい.イギリスやアメリカなどは一般からの援助は歓迎されている.よって日本の大学は,一般大衆との連帯感に欠け,「象牙の塔」ばどと揶揄されてしまう.これでは,研究への理解は生まれない.
そこで,今後も研究が発展してゆけるかどうかの鍵をにぎる重要な点について考えてみたい.イタリァのパドバァー大学では,学内での博士号取得の論文発表会は今も一般に公開されており,その後,発表者は大学外の公道にて発表を行う.これは,教会の禁止に逆らって人体実験を行ったルネッサンス初期からの伝統で,一般の人にその科学的研究成果を公開することにより,研究の自由を得たことを物語っている.
米国のNIHは,保健・衛生・医学の分野の国立機関で,研究費を配分する機関として知られている.その研究費の分配先・金額・テーマは,数年前からインターネット上に公開されていて,一般の人に公開されている.
このように,研究目的・成果の公開と研究の自由は裏表の関係で,我が国もこの線に沿った努力を推し進める必要がある.日本の大学における研究は官主導の方向性が強いが,今後は一般の人から指示されているから官も支援するという方向性が必要である.現在,我が国では,民間の個人からの援助はなきに等しいが,今後,積極的に受け入れる努力が必要である.
まとめとして,21世紀の研究活動は,一般の人の指示がなければ成立しないと思う.
○<講演2>「大学の未来—知的創造の源泉」 — 西澤 潤一氏
大学が果たす役割は現在変化している.一つの例をあげると,昔は一旦卒業した学生が大学へ戻ってくるということはまずなかった.つまり,大学の教育で教えたことを持ってゆけば大抵のことに対応できるような勉強をさせていた.しかし,現在はそういう考え方で教育を行っていないというのが現状だ.アメリカ式教育に変わったともいえる.
戦後の日本の教育は,ランク付けと規格化だったと思う.高等教育の本来の使命は将来の社会への担い手としての能力を学生に身に着けさせることにある,ということが重要であるといえよう.
日本人には創造的な研究は少ない,といわれるが,実はそうではない.戦前は日本人にも知的創造への貢献が数多くあった.立派な功績を残した先人の業績の例でもわかる.明治になってすぐ,優秀な頭脳が外国で仕事をして評価され,次には留学した人が日本へ帰って日本の大学で成果を発表した.その後すぐに,日本の大学で教育を受けて研究をして,日本で立派な成果を残すようになった.これからは,再び日本の教育だけで,研究の実績が出せる時代に戻さなければならない.
先人たちの偉大な業績を知れば,日本人には創造性がない,という批判が的はずれであることはわかる.日本人は不思議な民族で,教育次第ですぐに多くの知的創造が生まれる.
これからの教師は,学生の性格や能力を見抜いて育てるようにならなければならない.しかし,そうした学生の長所を見つけるようにならなければならない.責任を預かった学生の長所を見つけることのできる教師は残念ながら少ない.また,むやみに学生の自主性にまかせる,という姿勢も失敗することが多い.失敗も指導者がそれを読んで,失敗に責任を持ち,反省をし,その結果非常に良い仕事をするような者にその仕事をさせるべきだ.そういう学生には,失敗もさせて良いと思う.教師が一人々々の学生の能力を見抜き,伸ばしてやるのが教育だろう.根本は,正しく評価してやることだ.
戦後の教育はランク付けと規格化だった,と話したが,それはすべての学生の学力を「かさ上げ」しよう,というもので,こうした教育は社会の発展には大きく寄与した.日本は工業国家としてあるランクの揃った労働者,技術者を手に入れることができたから.しかし,偏差値でランク付けする教育は,学生の本来の能力を引き出しているとはいえない.すこし脱線するが,現在の偏差値による評価はあまりにも高く評価されすぎている.ある高校で業者テストをやめた後,これでは偏差値がわからないから進路に迷うではないか」と問いつめられた,という話がある.その先生は,何十年も生徒と接してきた教師としての経験よりも,たった一枚の業者テストの結果を信頼するのか,と憤慨しておられたが,こうした現実が日本の教育にはある.
偏差値だけを基準とする大学入試合格主義教育がなくならないのは,大学卒という資格を有り難がるからだ.だが,大学とは本来実力をつけるところで,資格をもらうところではない.中身などどうでもよく,偏差値さへ採れば良いといって皆バラバラな知識を持ち,大学に来る.高等教育で中身を理解をさせる教育をさせれば,進学率は落ちるだろう.その先生は間違いなく評価されないだろう.こういった社会が現実,日本で起こっている.「創造とは蓋然の先見にあり」というヘーゲルの言葉のように,今までの知識を十分に整理し,十分練ることにより,初めて新しく飛躍することができるといえよう.基本がしっかりしていないと伸びる芽もでてこない.今の日本の教育は,知ってはいるけど練られない,そこから新しい芽は出てこないだろう.ノーベル賞受賞者はノーベル賞学者の門からでる,どこそこ大学を卒業したかということではなく,だれそれ教授のもとで如何に学んだかという中身だ.
しかし,日本で創造的研究が生まれにくいのは,こうした教育環境だけに問題があるのではない.日本人は新しい学説が出ると無視するか潰すかしようとする.外国が評価してくれて,初めて国内でも認められる,ということが多い.日本の大学に創造的な土壌が育たないのは,こうしたことに問題がある.
これからの大学は,知的創造を生み出すように教育を改め,妨げる要因を取り除き,日本人の能力をひきだされなければならない.そして日本人にはしっかりした個性を持たせなければならない.
○フリートーク
西澤 学生に能力を見つけ出す方法は難しい.しかし,私の体験では,論理的な考え方を持つ学生は伸びる.
小林 研究活動で問題が指摘されたのは資金面と研究補助者の不足だった.
福川 イギリス人は創造的で,常識にないことでもどんどんやる.アメリカ人よりもイギリス人が創造的だ.しかし,日本では創造的な研究が生まれない.国民性や文化の違いを感じる.日本の場合,これからは発想の違う人が集まって研究できる環境をつくることが大切なのではまいか.しかし,日本人は群れて,互いの足を引っ張りあう人種だ.日本の研究室はムラ社会,縦型社会だ.これからはオープンな交流が必要だ.
アメリカがノーベル賞受賞者を多く輩出するのは,「アメリカで研究がしたい」と学者が思う雰囲気があって,優秀な研究者が集まるからだ.そうした雰囲気を作り出すことが日本の課題だと思う.それにはオープンな国際交流を進めて,違う発想の人が議論し,新しいものを作り出す風土を養うことだ.もっと日本にも挑発的な研究者が欲しい.それと,研究のマネージングも大切だ.
西澤 研究活動を活用化させるために,(1)研究費をもっと出す(2)研究補助者をもっと増やす(3)教官の待遇を改善する,という3点を主張したい.
(フロアからの発言)
金岡富山国際学園理事長 国からの研究費にしても,各省庁から別々に出ている.こうした縦割り行政を改善し,もっと統合してほしい.「これからの日本の教育を考える」という各講演は素晴らしい内容だったが,21世紀前半を支えるこどもたちはすでに教育を受けつつある.教育百年改革などといっていては手遅れで,改善すべき点は今すぐ取りかかってほしい.心配なのは,学生よりもむしろ,先生たちの思考の古さだ.先生もそして親も,「しっかりした個性」に向けて努力を始めていただきたい.
○話題1「富山県におけるこれからの地域医療」 — 舘野 政也 氏
このところ患者の大病院志向が強まり,問題となっている.大病院は患者急増で混乱し,「3時間待ち3分診療」の元凶となっている.公的病院では医師の数に限界があるので,このようにもならざるを得ないのが現状である.病院の対応として,予約診療や医薬分業,駐車場確保,ボランティアによる案内などで効率化を図っているが,これにも限界がある.
また,大病院は専門診療科志向が強く,医師の診断能力も限られてきており,グローバルな目で患者を診察することができなくなってきているのが現状だ.総合内科などを設けて工夫している病院もあるが,専門化が行き過ぎていることも大病院の問題だ.
こうした諸問題を解決するためには,大病院と診療所(開業医)とが機能分担することが大切だ.日本医師会でも「かかりつけ医」制度を強く打ち出している.自分の体を知りつくした誠意のある医師を自分の責任で選択し,普段の健康管理をしてもらい,精密検査や手術などが必要と判断した場合は大病院へ紹介するシステムを確立したい.また,病院での入院期間を短くして,退院後にはかかりつけ医で診察を受ける「病診連係」に取り組む時期になった.現に医師会でもこれらのことについて検討しているところである.そのようなシステムが医療圏ごとに行われれば,患者にとっても利便であろう.
また,病院においては,チーム医療が大切だ.一人の患者に対して複数の医師がディスカッションしながらチームで考え,治療に当たる.
病院と診療所の連携の次には,在宅ケアの推進が大切だと思う.家族と共に過ごすことは,患者にとって必要なことだ.しかし,在宅ケアは医療だけの問題ではなく,それを支援する福祉との連携で考える問題でもある.これからの時代,病院と診療所,そして福祉が機能分担しないと,心の医療,患者中心の医療は成り立たないであろう.
次に,地域医療における大学(医科薬科大学)の役割について話したい.大学付属病院も,基本的には地域に根ざした病院であることに変わりはない.しかし,現在はデータ,つまり検査結果中心の医療に傾き,「こころの医療」というものに欠ける点があるのではないか.これからは,(専門的な教育・研究を行う大学病院であっても)全人的な教育が大切だ.
昔の大学は閉鎖的で,「白い巨塔」などと称されるほどだった.これからの大学は殻に閉じこもるのではなく,積極的に医師会活動や社会活動に出て,開かれた大学であってほしい.実地臨床医と大学病院の研究の成果を織りまぜた積極的なディスカッション(カーファランス)を行って,大学の講義においても教員と第一線の医師が協力し合って医学生を育てていくことが大事だ.
現在県立中央病院は「厚生省研修指定病院」だが,このシステムが十分活用されているとはいえない.卒業すると大学に残る.これは当然良い面もあるが,できれば臨床を行う上で大切なことは「患者の心をつかむ」ことであり,できるだけ早い時期に臨床の場に出て,患者のプライマリーケアといった第一次医療についてもっと熱心に勉強して欲しい.研修医としての期間をもって臨床研修指定病院で研修して欲しいと思っているに,現在それが利用されていないのは従来からの古い大学の医局制度が改革されてないからだ.そして,研修指定病院での研修期間は大学の研修期間に算定して欲しい.
最後に,病院と医師そのもののあり方にも言及したい.現在は,同じような機能を持つ病院がたくさんある.これからはそうではなく,病院の特徴や個性を出すべきだ.そして,医師は一度職についたらそのままずっとではなく,医師としての向上心がなくなったら第一線からリタイアすべきだ.病院の医師(だけではなく技術者も)にも新陳代謝が必要といえるだろう.20世紀は医療のハード面(科学や技術)が発達した世紀だったげ,来るべき新世紀は置き去りにされた患者と医師とのソフト・コミュニケーションを作る時代にすべきだろう.
○フリートーク
(フロアからの発言)
片山病院長 大学病院としても,舘野先生から指摘された問題については努力している.専門診療による細分化の弊害については,プライマリーケアの推進や総合診療科の設置などで努力したい,また,大病院だけでなく,中小病院の先生とのつながりも深めて行きたい.21世紀の医療はどうなるのか.医学は発達するのに,医師の社会的地位は低下するだろう.いずれにしても患者本位で進みたい.
舘野 医師も縦型社会ではダメになる.
(フロアからの発言)
不明 データ主義に偏り過ぎている.と言う話だったが,そうしたことの弊害をなくして精神的,全人的な医療を行うため,音楽によるミュージックセラピーをもっと取り入れたらどうか.音楽がガンのターミナルケアや心臓病の治療に効果をあげたとういう例も聞いた.
まとめ(小林) 日本人は昔から独創性を持っているが,日本人から独創性を十分引き出すためには,日本の現在のような縦型社会ではだめである.集団教育ではなく,個性を引き出す教育と国際性が大事だということを,今回のシンポジムで痛感した.それと共に,大学教官の待遇改善がまず必要である.
閉会の挨拶 — 佐々木 博 氏
大学を外から見ている方々の意見が聞けて,大変有益だった.現在の大学生は活力を失っている.また,大学へ入る前の教育にも問題があることが確認できた.