モノローグNo.83.  便利は不便なことだ(2019-6-13

 

便利が不便というのは自己矛盾だと思うかもしれない。便利な世の中だが、それが逆に不便を招いている、あるいは混乱を招くと思えてならない。横浜のシーサイドラインで電車が突然逆走した。それも、4台とも一緒に逆走したらしい。なぜこんなことが起きるのか。無人運転で便利になったが、こういう怖いことが時に起こる。これは偶然ではないと思う。起こるべくして起こったと思う。つまり、プログラムミスだろう。AIなどで自動化されると便利だが、プログラムミスが起こると大変なことになる。プログラムミスは人為ミスである。人が関与している。もちろん、生身の人間が運転していても居眠りなどでミスは起こるが、自動になったからと言ってミスが起こらないことはない。

 

思いもよらないことが起こることを最近経験した。WIFIをルータで使っていたが、突然「セキュリティ保護」とか出てつながらなくなった。何もしていないのにだ。ほんと突然のことだった。どうしてだろうか。対策をネットで調べるといろいろと書いてあった。試してみたが、らちがあかない。新しいルータを買わないとだめかな、とストレスを感じていた。ある日、だめ元でやってみたら動いたのだ。機械も人間と同じく気まぐれなのだろうか。そこまで、機械は人間化したのだろうか。それはそうじゃない。内部でプログラムが作動していたか、自動でプログラム更新して動き出したか。理由は定かでないが、機械はいつも同じように動くと考えないほうがよさそうだ。エラーとかミスは、予期せず起こると心していた方がよさそうである。こうしたミスは偶然ではなく、明らかに人為ミスなのだろう。

 

自動運転でもプログラムを使っているはずだ。そして、プログラムにはセキュリティをかけてるはずだ。なぜなら、ハッカーによってプログラムを壊され、自動運転が無茶苦茶になることを防ぐためだ。しかし、ここに危険性がある。プログラムを自動更新したさいに、思いもよらぬ誤動作を起こす可能性がある。ある瞬間、次の駅へ到着したら逆に走る、という指示に変わった可能性がある。これまた人為ミスだと思う。生物には突然変異があるように、プログラムにも突然変異があるようにみえる。

 

考えてみれば、WORDで自動的にインデントしてくれ、便利だと思うこともあるだろう。しかし、インデントが不要のときまで、気を利かしてやってしまう。そのたびに、戻すのに苦労することになる。便利な一方で不便を感じる。余計な事をしなくていいよ、と言いたくなる。

 

自動車のオートマも運転を楽にさせたに違いない。しかし、オートマはご承知のように、駐車場から出ようとするとき、ブレーキに足をかけ、エンジンをかける。ブレーキの足を離すと、アクセルを踏まなくても自動的に動き出す。結構のスピードで出るので、慌ててブレーキを踏むことになる。これが反射の遅くなった高齢者にはできないのだと思う。悪いことに、そのときブレーキではなくアクセルを踏んでしまい、急発進する事故が起きていると思えて仕方がない。これはオートマのなせることだと思う。オートマは確かに便利だが、余計なことをしてくれるなと言いたい。ギアならブレーキの足を離しても動かない。ブレーキの足をアクセルに切り替え、踏んで初めて動き始める。だから慌てないのだ。しかも、クラッチを良い位置に保たないとエンジンが落ちる。人には迷惑をかけない仕組みになっている。高齢者になるとクラッチの使用が困難になれば、車を実際動かせないので、これは免許証を返納しようとなるわけだ。でも、オートマだと事故を起こして初めて、これは免許を返納しなければと気づく。これでは遅い。運転技能が求められるマニュアルに戻せば、こうした痛ましい事故は減るはずだと思う。もちろん、最近進んでいるアクセルの改良もあるだろうが、これでは解決にならないような気がする。

 

カーナビもその一例だ。道を教えてくれて便利なので、ほぼすべての人が使っている。私はこの文明の利器も嫌いだった。「だった」と過去形にしているのは、いま現在は車を運転していないからだ。見知らぬ地へ行っても、マップを見ながら運転する必要もない。大変便利な機械だと思う。しかし、昔レンタカーでカーナビ付きに乗ったとき、こんなことを感じた。それは、余計な指示をしてくれるなということだ。目的地を入力すると、カーナビが次の交差点を右折とか指示してくる。しかし、マップからみて、自分はこちらの道で行こうと考えていた。そちらのほうが近そうなのだ。カーナビは近そうだとか、混雑する道だとかを考えずに、標準的な道を指示することが多い。通の人にとって、この標準解を出すカーナビは、うっとうしくてしようがない。

 

便利な車になり、シートベルトをしていないと「ピーピー」鳴り出す。もちろん、シートベルトは必須だが、ちょっとした駐車場での移動だけでも、していないと鳴り出す。今後、速度も管理するようになるだろう。いまでも公共バスでは、速度オーバーすると「ピーピー」鳴っている。ちょっとくらいいいだろうと考えるのはいけないかもしれないが、余計なお世話だと言いたい。AIなどの技術が進歩すると、自動運転の自動車も出そうな勢いだ。考えてみると、自動車とは文字通り自分で動く車だから、自動運転車が究極の形かもしれない。運転者は寝ててもいいから便利だろうが、プログラムは人間が作っており、そのプログラムは完璧とは限らない。そこで、不意に誤動作が起こる。そしたら、大変な事故になる。

 

AIなどの技術を使って、いくらでも便利な社会にできるだろう。しかし、それは人間をだめにするかもしれない。昔は30件くらいの電話番号は暗記していた。いまはスマホに入っているので覚えていない。自分の家の番号さえ忘れる始末だ。これにより脳の働きがにぶり、これが認知症の増えた原因だと考えている。そして、スマホを忘れたら最悪。だれにも電話ができないどころか、何をしたらおいかスケジュールも分からない。先日学会でこういう風景を目にした。例によってパワーポイントでプレゼンしようとするが、それが映されないのだ。前座の話をしていたが、5分経っても映されない。発表者は困りましたね、と。つまり、パワーポイントを使えないと発表さえできないのだ。それはあんたが悪い、あるいは会場の機械係が悪い、と言うかもしれない。スマホ携帯を忘れなければよい、会場の機械係が準備をしておけばよいと言われるかもしれない。その通りだが、これらはなくてもいいものだし、あると逆に記憶力が落ち、認知症になりやすいような気がする。

 

タッチ式のパソコンもそうだ。手でタッチして選べるので便利だ。しかし、タッチ式になって、ちょっとした手の操作で動いてしまうので、マウスでやっていたときよりも知らぬ間に設定が変わってたりする。いつの間にか設定が変更され、慌てて戻したことを思い出す。これも便利ゆえに困った事柄だ。大切な書類を誤って消すこともありうるし、誤った設定を知らない間にする可能性がある。知らぬ間に、というところが大切なのだ。

 

より便利な社会を求めるよりも、原始に戻るべきではないか。原始時代は極端かもしれないが、機械に頼りすぎることなく、自分でやる(Do it yourself fanが一昔流行した)を改めて主張したい。Amishという地区がアメリカにあるが、そこは電気も電話も使わず、まさに原始的生活をしている。吉幾三が「おら、こんな村いやだ」と歌っていたが、そんなものはないほうが人間的生活へ戻れると思う。職場でもメールを使うようになり、隣の人でさえ会話せずメールするという。人間性がどんどん欠如する社会になった。昔は慰安旅行あり、仕事帰りの「飲みニケーション」(お酒でコミュニケーションを図る)もあったが、今は断る人が多くなり廃止されたようだ。私も一日、だれとも話さないことがある。それでも寂しいとは思わない。ネットとか、ゲームとかで満足する。私はゲームしませんが。こんな社会でいいのかなと常々思う。

 

効率を求める社会へも閉口する。アメリカ主導で起きてきたM&A、これも経営効率を求めるためというが、このためにいやな目にあった社員は数多くいる。そして、つぶれてしまった会社もたくさんある。こうしたことにより、勝ち組・負け組がはっきりしてくる。そして、貧富の差もどんどん大きくなる。こんな社会を私たちは求めているのだろうか。私は助け合いの社会、寄り沿う社会、富を分散する社会を求めたい。効率よりも余裕や遊びを優先したい。そうすれば、最近の痛ましい「いじめ」、「孤立」、「無差別テロ」などは起こらないように思う。

 

超長いモノローグになって申し訳ない。社会問題は根が深く、言いたいことがたくさんあったためだろう。かなり溜まっているのかもしれない。


モノローグNO.82.  データサイエンスは科学なのか(2019-5-27


サイエンス(科学)というのは、体系的知識を追求することと言われる。「Sci-」には、知識という意味があるらしい(ラテン語の「Sci-entia」が起源)。「真実を追求するのが科学だ」というのもよく聞く。それこそ科学とは学問のことなのだろう。サイエンスが「知」だとすれば、「技」としてのアートがある。サイエンティストは科学者、アーティストは芸術家と呼ぶが、「家」が付くと職人を思い浮かべる。「学者」と「職人」では「学者」のほうが偉そうに聞こえるけど、人間としてどちらも同格だと思う。追求するところが違うだけである。学者は知の体系を追求し、職人は技を高める(腕を上げる)ことを追求するわけだ。


Sci-」には、分けるという意味があると聞いたことがある。ハサミは「Sci-ssor」だが、切って分ける道具だ。そう考えると、科学とは論理的にどんどん分け入り、真実へたどり着くものなのだろう。データサイエンスがいま注目を浴びているが、サイエンスというからには、どんな真実を追求しているのだろうか。


サイエンスには、ハードとソフトの2種類あると思う。ハードとは、真実は一つであり、それを見つける科学だ。例外を認めない世界でもある。ふつうの人は、これがサイエンスだと信じている。たとえば、地球は丸いということを証明するのがハードサイエンスである。りんごが下に落ちるのは重力だと証明したのもハードサイエンスだろう。iPS細胞の発見もそうだろう。


しかしながら、もう一方でソフトサイエンスというのがある。たとえば、たばこが肺がんの原因であることを突き止めたのはソフトサイエンスの御蔭だと思っている。これも真実を突き止めたけれど、その方法はハードサイエンスとは異なる。ハードでは演繹法を使い、ソフトでは帰納法が主だ。演繹法はトップダウンで、帰納法はボトムアップと言える。そして、ハードでは例外はあってはいけないが、ソフトでは例外を認めたうえで証明する。つまり、たばこをすって肺がんにならない人がいても、たばこが肺がんの原因という真実を見つけ出せる。「たばこをすうと肺がんになりやすい」という真実が証明されたので、これもサイエンスと言えるだろう。データサイエンスとは後者のほうだと思われる。データから真実を追求するのがデータサイエンスなのではないだろうか。


そういえば、数学・物理学などは自然科学(natural science)と呼ばれる。定理や法則といった真実を追求するのでサイエンスなのだろう。自然現象における真実を追求すると言える。経済学・社会学などは社会科学(social science)と呼ばれる。景気動向の仕組みや購買心理の原理などの真実を追求している。社会現象における真実を追求すると言える。政治学は「political science」と言うが、これまたサイエンスなのだ。政治の真実を追求する学問なのだろう。余談だが、日本人は四文字略語を好む。「ポリサイ」・「アングラ」は想像つくだろうが、「ハイトマ」は富山人にしか分からないだろう。


統計科学(statistical science)はどうだろうか。統計学(statistics)と同意だが、統計科学もサイエンスである。偶然現象の中で真実を追求する学問である。データ科学(data science)はデータから真実を追求する学問だろうが、データは偶然現象と思えば統計科学も同じようなものかもしれない。


サイエンス(科学)に対比されるのがアート(芸術)である。さきほども言ったが、「知」と「技」(または「術」)のほうが分かりやすいだろう。サイエンスこそが学問と言ったが、学問にはアート的要素も含むと私は思っている。米国の修士号には、Master of Science (MS)のほかに、Master of Art (MA)がある。統計科学ではMSのほうが多いが、MAを出す大学も一部ある。「Amstat News最新号―April 2019」で、”Data art show”という見出しがあった。データをうまく表現する(図示する)のはアートだろう。それは真実を求めているわけではないが、分かりやすい図示を考え出すのも大切なことだ。コンパクトなプログラムを書くこともアートだろう。データサイエンスだけでなく、データアートも教育することが必要ではなかろうか。


医学にもサイエンスとアートがあるように思う。免疫の仕組みを追求するなどはサイエンスだろうが、手術の優れた術法を見出すのはアートだろう。使いやすい器具を考えるのもアートだろう。サイエンス志向の医師は基礎医学へ行くことが多い。たとえば、iPSの山中さんなどがそうだろう。一方、アート志向の医師は臨床医学へ行くことが多い。手術が上手になることはサイエンスではないが、医師としては不可欠の技能である。信頼される医師なるためのコミュニケーション術などもアートだろう。どちらも学問の発展には欠かせない能力だろう。


科学者(Scientist)は筋道や論理を重視するが、芸術家(Artist)は直観や発想を重視する。偉大な統計学者にMantel博士(Mantel-Haenszel検定のMantel)がいる。MH検定や併合オッズ比は式が書いているだけで、その統計学的性能などは全く触れていない。まさに直観の人という印象を強く持つ。統計学的性能については、後に別の人が研究したとされる。


サイエンスもアートも大切な仕事だと思うが、高等教育ではサイエンス万能すぎる気がする。論理や効率を求めるあまり、余裕や無駄な時間がなくなると人間性に欠ける。もっと人間性、つまりアートのほうを考える時期ではないだろうか。一方で、これからは科学の時代だから、理系を重視しようとしている。文明の改革は、確かにサイエンスに依っているところが多い。新薬しかり、自動運転しかり、AIしかりだ。文系はあまり発展に寄与していないが、いつも人間性を考えないと科学暴走を許してしまう。新薬だってアートがないと兵器になるかもしれない。自動運転もアートがないと無秩序の社会になるかもしれない。AIもアートがないとロボットに支配されるかもしれない。私たちはあの原爆を決して忘れてはならない。


モノローグNO.81.  和歌と短歌は何が違うの?(2019-5-20


新しい元号「令和」の出典は万葉集だった。明日香―藤原―奈良といった時代に作られた和歌、4516種(20巻にわたり)を含み、奈良時代に生きた大伴家持が編纂した和歌集である。「令和」の起源となった和歌は、父親の大伴旅人による。大伴旅人は大宰府へ赴任し、子の大伴家持は富山(越中)で国守をしていた。


万葉集の後、古今和歌集・新古今和歌集などが出たが、万葉集は数では最大規模と言えよう。中国の漢詩に対応するのが日本の和歌とも言える。いわゆる、5−7−5−7−7形式の歌である。旋頭歌(せどうか)は、5−7−7−5−7−7という形だったようだ。旋頭歌とは頭を巡らす歌のことであり、上の句(5−7−7)に対して、下の句(5−7−7)を巡らし、上と下は別人が書くことも多かったようだ。いずれにせよ、これらの和歌は西洋でいうところの詩(poem)に相当すると思われる。長文の小説(novel)とは対照的な文学形式なのだ。


短歌という言葉が生まれたのは、明治になってから、正岡子規が生みの親だと言われている。彼が短歌と呼びなおし、形式的な和歌を改革したことで有名だ。彼は、執拗に和歌を攻撃したとされる。和歌では「枕詞」を使う慣習になっていたが、短歌ではそうした形式は問わなかった。そして、見たままの現実を写し取ることを歌の本意とする「写生」を唱えたが、そのころ西洋で台頭していた写実主義が影響したのかもしれない。


正岡子規は和歌だけでなく、俳句についても改革したことで知られる。5−7−5の俳句も和歌の一つとされるので、短歌とは和歌の一種と言ってもよいかもしれないだろう。


モノローグNO.80.  三種の神器(2019-5-16


三種の神器は何かと聞くと、昭和世代の人なら「テレビ・冷蔵庫・洗濯機」と言うだろう。医学統計の人なら「カプランマイヤー・ログランク・コックス回帰」と言うだろう。しかしながら、三種の神器とは元来、皇室が代々受け継いできた宝物なのだ。剣・勾玉・鏡の3つとされている。

 

勾玉は宝物という感じがするが、剣と鏡はなぜか武器を思い出す。剣は矛であり、鏡は盾に思われてならない。こうした武器が、当時、国を守るのに大切だったからではないだろうか。勾玉は曲がった天然石であり、これは宝飾品のような気がする。そういえば、ツタンカーメン王のお墓に大量の宝飾品が埋蔵されていた。

 

今年51日に三種の神器が新天皇へ引き継がれたが、それは剣と勾玉だけだった(印章はあるが)。鏡はどうしたのだろうか。たぶん、鏡は重いからではなかろうか。それじゃ、どこに置いたままなのだろうか。調べると、鏡は伊勢神宮にあるという。ちなみに、剣は熱田神宮に本物があるらしい。それじゃ、51日に皇居に収められた剣はレプリカなのだろうか。勾玉は皇居にあるのが本物のようだ。

 

勾の音読みは「こう」であり、たとえば勾配(こうばい)はよく聞く。訓読みは「勾()がる」、「勾(とら)える」のようだ。当て字として、「曲玉」が使われるのはそのためだろう。確かに、勾玉は水晶やヒスイなどの天然石で出来ており、くの字に曲がっている。魔よけや幸運を呼ぶということで、お土産のアクセサリーとしてよく見かける。くの字の独特な形の勾玉は日本独特のようであり、他国では輪や丸の形が多いようです。


モノローグNO.79.  象徴天皇は人間天皇のことか(2019-5-13

 

51日に令和の時代に変わった。天皇陛下が国民の象徴に変わったのは、戦後の日本国憲法だった。象徴って何だろう。英語で言うとシンボルだ。会社のシンボルはというと、何か目立つ建物やロゴマークなどを思い出す。家のシンボルはというと、それは家紋だろうか。キリストのシンボルは十字架。日本のシンボルは日の丸、つまり国旗だろう。では、国民のシンボルとは何だろうか。国民の代表だろうか。いや、国民の代表は首相だろう。それでは顧問だろうか。国民の顧問が天皇、これは変な気がする。顧問と言うのは英語で言うとアドバイザーだ。相談役ってとこか。天皇が国民の相談役ということはない。

 

象徴とはシンボル、つまりSym-bolを考えると、Sym-SymphonySympathyなどから分かるように、一緒になることを意味する。Bolは、投げるとか飛ばすという意味らしい。したがって、国民の気持ちに同感し、親近感を持つことなのだろう。そうであれば、国民に寄り沿うと言われた平成天皇(上皇)のお言葉がぴったりするような気がする。そして、日の当たらないところへ手を差し伸べる、弱いものの味方のようにも思える。Symに同情という意味合いがあるからだ。沖縄の慰問を続け、戦争を忘れないことで平和を念願するというのも、象徴の意味を考えるとよく分かる。

 

英訳を調べると、「Symbolic emperor」とある。これはいかにも直訳であり、何を言っているか分からない。もっといい訳はないだろうかと思っていたら、英国BBCがこのように言っていた。それは、「Human emperor」だった。人間天皇とでも言おうか。そういえば、天皇は人間ではなく神様だった。先祖が天照大神と言われるからだ。平成天皇(上皇)は国民の象徴とは何なのかを考え続け、人間の気持ちに寄り沿える天皇こそが象徴天皇だと思われたのでしょう。だから、象徴天皇=人間天皇というのは分かりやすいと思った。

 

昭和天皇は、国民の象徴という意味をあまりお考えにならなかったように思う。平成天皇(上皇)は戦争を経験し、美智子さまと結婚されるまでは同様だったと思う。結婚して間もないころは、出かけた先で美智子さまは膝まずいてお話ししているのに、皇太子(現上皇)だけ後ろに立ったままという光景をみた。まだ国民に寄り沿うことが、象徴の意味ということに気づいていらっしゃらなかったためと想像する。今度天皇になられた令和天皇は戦後生まれであるし、ほとんど普通の国民と同じような感覚を身に着けておられる。まさに、人間天皇と呼ぶにふさわしい方だろう。ちょっと心配なのは、あまりに国民と同じであることを前面に出すと、それなら特別扱いしなくてもいいのではという世相が出てくることだ。やはり、国民とはちょっと違う、高貴なお方という存在がいいと思う。

 

余談だが、令和を「Beautiful harmony」と訳している人がいた。出典の意味もよく考えた名訳だと思う。音楽領域などではよく使われる単語なので、違和感もない。「和」については文句ないと思うが、「令」については今一つという感じをもった。Beautifulは美しいとか素晴らしいという意味だからだ。むしろ、「めでたい」、「よい」、「すぐれた」といった意味合いがほしいところだ。かといって、「Happy harmony」、「Good harmony」、「Fine harmony」は、なんだか英語の語呂が悪そうだ。


モノローグNO.78.  勉強は復習が大切なのだ(2019-5-7

 

常日頃から、予習より復習が大切と言ってきた。そのことが、いみじくも論語の中に書かれていた。論語の「学而」冒頭に、こう書かれている。

 

子曰、「学而時習之。不亦説乎。」

 

とある。これは孔子による(諭吉ではなく)、学問のすすめだと思った。「学習」の語源でもあるようだ。

 

「学びて、時に之を習う。またよろこばしからずや。」意訳すると、「授業で学び、機会があるごとに反復(復習)する。それはなんという喜びでしょう。」になろう。学習とは学ぶだけでなく、その後の復習あってこそと言っている。

 

「学」は学ぶことなので、人から教えを受ける。つまり、授業を受けることだろう。「而」はあまり見かけないが、漢文ではよく出てくる。「で」という助詞のようなものらしい。「時に」は時々というよりは、「時宜あるごとに」といった意味合いだろう。「習」は「見習い」からも想像できるように、繰り返すということなのだろう。だから、復習につながると思うのだ。

 

「自習」とは、自らで何度も繰り返す学ぶことだと解釈できる。「予習」とは、あらかじめ(予め)繰り返し学ぶということなのだろうが、学びの前を意図していると思われる。「学習」とは、学んで繰り返すだから、授業+復習になると思われる。学ぶ前の予習については、孔子は言及していなかった。

 

私は予習より復習が大切と言ってきた。そこで、授業スライドは授業後に公開し、それを見ることにより強制的に復習するように配慮している。


モノローグNO.77.  ポスドクの待遇はよくないのだろうか(2019-4-25

 

ポスドク(post-doctor)とは、博士号を取得した後の研究者のことです。定職には付けず、研究費で雇われることが多い。最近のニュースによると、日本のポスドクのポストは短すぎて、研究に実が入らないため、5年以上契約できる制度に変えるというのだ。

 

外国でもポスドクは研究費で雇われるため、その期間は短いことも多い。研究費が継続されれば居続けられるが、研究費が切れれば首になる。これは別に日本に限ったことではないように思う。ポスドクはそうした短い期間の間に成果を上げ、名声を上げ、仮に研究費が切れても別のグラントで雇われるよう頑張っている。日本人研究者だけ長く居続けられるようにするのは、少し甘すぎないかな。

 

人は安住できることが分かると、手を抜くところがあると思う。緊張の連続もきついことだが、ある程度の緊張感もないと成果は出ない。米国では教授であっても、パーマネント(テニュア)でなければ、ファンドが切れると居場所がなくなることもある。業績が下がると、格落ちの大学へ移ることもよく聞く。日本では教授が途中で首になることはないだろう。米国は、それだけ永続的に走り続けないと安住できない世の中なのだ。若いうちはいいだろうが、歳をとるとこれもきつい。ということで、50歳ころになると日本へ戻ってくる日本人もよく見かける。

 

しかしながら、日本人と米国人は気質が少し違うように思う。ファンドが切れたら、次へ移動する。また、切れなくてもボスと合わなければ出ていく。これは米国人的だと思う。日本人はどうだろうか。おとなしいので、そんなに過激、あるいは競争的な気質ではないと思う。ボスが次のファンドを世話するといったことを、部下も望んでいることだろう。そうすると、5年以上の契約ができると部下も安心して仕事ができるかもしれない。

 

米国などの競争社会と、和を重んじる日本の社会では、人々の考え方は異なるだろう。いまのポスドク制度や競争的研究費制度は、米国に倣ったところがあると思う。つまり、米国からの輸入だ。これが日本に合うのだろうか。合わないところが多いように思う。同じように輸入されたものに、M&Aがあるだろう。吸収合併だ。これも競争型の米国人は好むかもしれないが、和を尊ぶ日本人はあまり好まないことだと思う。相手と競争し、勝ったら吸収してしまうというのは、あまりに猛獣型だと思う。

 

日本型を維持するか、米国型を取り入れるか。どちらもいいとこがある。長く居続けられると安心して、むしろ成果が出にくくなるかもしれない。米国的に短期で成果を出さないと、次へ行けないような構造のほうが、やはり成果は出てくるに違いない。甘くするより、厳しい教室のほうが業績の多いことは周知だろう。一方で、こんなことも思う。そんなに競争して、どんどん業績を出し続けることがいいことなのだろうか。どんどん技術開発が進み、昔の機器が使えなくなるこの世の中を憂うのは、私だけだろうか。もっと、スローな社会が戻ってくるべきではないだろうか。


モノローグNO.76.  新元号が「令和」に決まりました(2019-4-1)

 

天皇陛下は平和のことを気にされていたようなので、平和の「和」は新しい元号に入ると思っていました。末永く平和で「永和」か、栄える平和で「栄和」かと、実は思っていたのです。解答は「令和」でした。惜しいところでした。今調べると、「永和」は辞書で自動的に出てきます。もちろん、「令和」は出てきません。辞書で出るような言葉ではだめでした。反省。


さて、「令」という漢字、小学4年生で学ぶようです。小学生でも書ける平易に漢字におさまりました。「令」は法令や命令などを思い出し、ちょっと封建的かなという印象をまず持ちました。しかし、一方で、「令嬢」や「令室」という言葉も思い出しました。「高貴な」という意味があるようです。知りませんでしたが、「令名」という言葉もあるようです。これは「良い」といった意味合いのようです。きっと平和を望まれているが、それを高め、高貴な平和を祈られてのことかと思います。


モノローグNO.75.  Take out, それともTake away? (2019-3-7)


ファストフードのお店では、持ち帰りすることが多いと思う。日本では、店内でお召し上がりですかと問われると、持ち帰りますと答えればよいが、海外ではどうだろうか。日本語でテイクアウトと言うから、Take out, pleaseだと思うだろうが、あまり聞かないかもしれない。Take awayのほうがよく聞く。To goのほうがポピュラーかもしれない。説によると、Take outは米語、Take awayは英語とあるが、私の経験では米国でもTake outよりTake awayを多く使うような気がする。

 

Take outを語源的に考えてみると、外で取る、つまり外で受け取ってくださいとも取れる。これは明らかにおかしい。しかし、取って出る、つまり取り出すとも捕えられるため正しいかもしれない。ちなみに、Take outTakeは他動詞、outは副詞である。Take awayTakeも他動詞で、awayも副詞である。こちらは、何かを取って離れるということなので、運び出すというニュアンスなのだろう。他動詞だから、後ろに「何を」という目的語が入りうる。

 

Outの意味を理解してもらうために、Keep outという用語を考えてみたい。Keepとは保つという意味だ。Outは外という意味だ。したがって、外に保ってください、つまり外にいてください、ということ。中に入らないように、立ち入り禁止となる。このOutも副詞だが、この副詞を使いこなせるようになればネイティブと言えよう。副詞は他動詞の後に来ることが多いが、この例では自動詞Keepの後に副詞が来ている。見回してみると、Get outGo out「出ていけ」も、自動詞+副詞だ。

 

さて、outは副詞としてだけなく、前置詞outもある。副詞は動詞を補う語だが、前置詞は何かの前に置く語である。たとえば、look out the window(窓の外を見る)で、outは前置詞である。Windowの前に置かれているからだ。Go out of print(絶版になる)では、outは副詞、ofが前置詞だ。前置詞はprintの前に置かれている。Go outで出ていく、つまり消えていく、何がというと印刷物ということで、絶版になるのだろう。

 

前置詞は、場所や時間を表すときに使うことが多い。場所を表す前置詞として、inatがある。富山に住んでいるはlive in Toyama、学会が富山で開催はat Toyamaと言ったりする。Inでは富山の中というイメージ、atでは富山という土地というイメージだろう。平面と一点の違いともいえよう。日付を表すとき、曜日はon Mondayのようにonを使うだろう。Onには接しているとか同時にという意味合いがある。一方、月や年ではin Marchin 2019のようにinを使うだろう。Inには中とか間という意味合いがある。つまり、狭い時間ではon、広い時間ではinが使われるのだろう。


モノローグNO.74.  米朝サミットの物別れに見え隠れする交渉術(2019-3-5

 

米朝サミットが先週、ベトナム・ハノイで開催された。開催場所だが、北朝鮮側は最初、ピョンヤンでと提案したようである。しかし、これに対して米国は、それは無理だと断った。その後、ベトナムが候補に挙がった。当初、ダナンという場所で調整していたが、北朝鮮はハノイを主張した。たぶん、列車で移動する金正恩氏一行にとっては、ハノイのほうが手前で近かったからだろう。最初、ピョンヤンという提言を米国は断ったので、今回は米国が折れたようにみえる。いったん折れることで、交渉が優位になるのである。

 

さて、今回のサミットで交渉は物別れに終わった。金正恩委員長は経済制裁を解いてもらうことに自信をもって出征したが、これは大打撃だろう。聞くところによると、署名文書は事務方でほぼ完成していたらしいので、これは米国側の魂胆ではなかったかと思う。殺しはないものの、謀反ではないだろうか。言い換えると、米国トランプ大統領のDealではないか。交渉はまとまると見せて、そこでいったん中座する。つまり、Noと断ることで、相手側の譲歩を引き出す戦略である。これは下手をすると、完全物別れの危険性はある。つまり、交渉はまとまると見せて、突然却下するのだから、いわゆるドタキャンに近い。これにより、相手を信用できないと思わせてしまったら、大変危険なことだ。しかし、ドタキャンに見せないことに成功することができれば、これは交渉上の優位を得る策としては巧妙である。

 

一般人でも小さな交渉事で、いったん退席してしまうことで、相手側がまあまあと言って、ここまで譲歩するから何とか、という事案は思い当たることは多いだろう。これは、米国側の交渉術だったように見えてしようがない。それこそがトランプ商人の証と見える。それは、ダナンからハノイで妥協したときから、優位性を持てたことから始まったとも見える。


モノローグNO.73.  北朝鮮問題は3段階で解決を(2019-2-26


トランプ大統領を批判する人が多いけど、選挙で約束したことを順に実現している、または実現しようと努力している点は見事のように思う。北朝鮮問題はどうだろうか。昨年、電撃的にその突破口を開いた。北朝鮮に非核化を約束させることができた。これは、歴代大統領だれもなしえなかったことである。そして今年、あと2日後だが、第2弾は何を見せてくれるのだろうか。何も中身の進展はないという人が多い中、私は朝鮮戦争の終戦宣言をするのではないかとにらんでいる。少なくとも、その約束をすることになるのではないかとみている。そして、この段階から経済制裁などを徐々に解いていき、経済発展の手助けをするんではないかと思う。非核化を宣言し、終戦も宣言し、それを実現するには時間がかかることは大統領も周知だろう。従って、第3弾の会談は少し後になるのではないかと思う。当然トランプ大統領の再選後になるだろうが、最終的な非核化を確認し、名実ともに非核化宣言の実現となる。ビジネスで言うと、相手とまず交渉し、その将来目標を共有し、契約を結び、そして実行し成果を見せるという過程である。契約から成果までは少し長い時間になるのは常であろう。私の予想というか期待は裏切られるかもしれないが、私が大統領ならこうした過程を頭に描くことだろう。


モノローグNO.72.  戦後最大の景気ってどういうこと(2019-1-31

 

今年初めての独り言です。1か月以上空いてしまいました。ちょっと忙しかったからだと思ってください。体調不良ではありません。

 

さて、現在、201212月から続く長い景気だと言います。いざなぎ景気(1965-70年)に長さでは並びました。でも、「そんなに景気はいいの」というのが率直な感想ではないでしょうか。まれにみる景気のよさ、笑ってしまいます。それはなぜでしょう。そんなに家計が楽になった気がしません。だったら、景気がいいってどういうことでしょうか。株価が上がっているだけじゃないんですか。企業の業績が伸びているだけじゃないんですか。そうじゃなくて、給与が上がり、それに伴い物価も上がるというのが、ふつうの人が思い浮かべる景気のよさではないでしょうか。しかし、その観点からいうと、まったく当たっていません。

 

消費者物価指数の統計をみると、物価はここ20年(1990年から現在まで)ほとんど上がっていません。サラリーマン給与の統計でも、1990年ころからほとんど変化がありません。むしろ、ちょっと下がっているようにも見えます。自分の給与をみても、1994年に富山大学に来てから200万円ほど年収は上がりましたが、それは年功序列分だけのような気がします。考えてみると、25年で200万円ですから、1年当たり8万円アップにすぎません。これでは上がったとは言えませんね。それに、年齢が上がれば給与も上がる規程になっていますから、これは景気拡大ではありません。

 

銀行の利子がつかないのも、景気のよさを実感できない一面です。1970年ころは、10年で2倍になっていました。今は10年預けても、雀の涙しか利子はつきません。そのころは高度経済成長期であり、ほしいものがいろいろあったのを覚えています。いまはほとんどそろっていて、必要なものはなくなったようです。これでは消費は伸びません。消費が伸びないと生産も増えません。だから、成長率が伸びないのでしょう。でも、それはそれでいいような気もします。人口も不変か減少気味。成長を望む人にとっては危機感を持つかもしれませんが、それはそれでいいんじゃないでしょうか。成長し続ける社会がどうしても必要ですか。私はそう思いません。成長しないと仕事がなくなるかもしれない。そうじゃなくて、仕事をしなくても生きていける(持続可能な)社会をどのように作るか、それがいま問われているのではないでしょうか。

 




モノローグNO.71.  インド大使館はぼったくりか(2018-12-13

 

インドへ渡航するに際し、インド大使館へビザを申請しなければいけないことに気づいた。なんでインドにビザがいるのかとまず思ったが、必要だというからしようがない。東京の大使館に出向くのは大変なので、ネットで申請できるのを知り、試してみた。申請用の写真も準備し、多くの項目を1時間かけて入力した。写真はアップロードされ、微調整して作成できるようになっているのには驚いた。亡くなった両親のことまで情報を入力するのも、どうしてと思ったりした。いずれにせよ、必要事項をすべて入力し、写真をアップロードし、航空券eチケット・パスポート・名刺などもアップロードした。そして、最後に支払い。クレジットカードを受け付け、学会の登録費支払いと同様に、支払いの作業も難なく済ませた。

 

2日後には、登録しておいたメールアドレスに結果が届いていた。結果はRejected。理由はよく分からない。いずれにせよ、却下するならカード支払いした費用(約3千円)を返してほしいとインド大使館にメールしたが、もう2週間経つも返事はなし。一体どうなっているのか。これじゃ、ぼったくりじゃないか。先払いは失敗だったと思い、再挑戦では先払いはせずに行った。そしたら、もう1週間以上経っているのに、ずっと審査中。先払いしないと審査はしないということか。先払いしたら、再度Rejectだったら、3千円が無駄になる。待つしかないと思ったり、直接東京のインド大使館に行くかと思ったり、大変ストレスな毎日を送っていた。

 

そうこうしていたら、Visa on arrivalという制度のあることが分かった。現地でビザをもらう制度だ。事前にビザがとれないなら、これで行くしかないかと今は思っている。しかし、リスクはある。インドに着いても、そこで入国させてもらえなかったらどうしよう。でもこれしか今は手がないので、とりあえずこれで出国しようと思っている。運を天に任せるしかない。若い時ならこれくらいの冒険は日常茶飯事だったけど、この歳になって冒険はしたくないなあ。


モノローグNO.70.  文科省による大学の再編統合は無責任(2018-12-6


久しぶりのコラムになります。海外出張やら執筆などで忙しく、さぼった結果です。書きたくなるようなニュースがなかったのも一因かな。


複数の大学をまとめ、アンブレラ方式とか言って、再編統合を文科省が促している。そういえば、10年くらい前にも統合が話題になっていた。富山でも3大学(富山大学、富山医科薬科大学、高岡短期大学)が統合して、「新生」富山大学が誕生した。統合には10年かかり、事務作業も作り直しを何度も何度も繰り返した。携わった教授の疲弊と失望(せっかく作った案の撤回の繰り返し)だけが残った。そのときの再編統合の目的は何だったか。教育や事務の無駄解消だった。特に、教養教育の重複を解消できるのが全面に出ていた気がする。学長さんや幹部さんも減らせる。


今回はどうかというと、少子化がキーワードのようだ。少子化になると、入学定員を満たさない大学がどんどん増えていく。再編統合してスリム化することで、入学定員も減らせる。類似した学科が3つあったとしよう。それぞれ定員40名だったとすると、全部で120名が定員だ。それが統合することで、たとえば80名にすることは可能だろう。しかし、統合のための作業は並大抵なことではない。以前の統合を経験した者として、身に染みて分かる。今でも雑務でひいひい言っている教授陣が疲弊化し、教育研究の水準がまたまた落ちる。


アンブレラ方式の再編統合よりは、自然に任せ、いくつかの大学が消滅していくほうが合理的のように思う。再編統合の作業が不要なのが一番だ。複数の大学が統合して、○○統合大学など、変な新大学が誕生するのも防げる。歴史のある大学は名前ごと残るべきだろう。たとえば、富山医科薬科大学は今はもうないが、外国の人がみれば消滅したと思うだろう。決して、富山大学に統合されたとは思わない。米国のMITとハーバードが統合してMITになってしまったら、ハーバードは消滅したと思うだろう。MITはいいかもしれないが、ハーバード側はいい気がしないだろう。それではMIT/ハーバード大学にしたらいいと思うかもしれない。これこそ愚の骨頂。妥協の愚産物。やはり、優れた二大学はそのまま残るか、どちらかが消滅するほうが分かりやすい。名古屋大学と岐阜大学が統合しようとしている。統合したら、たぶん名古屋大学になるのだろう。そうすると岐阜大学は消滅したと周りは見るだろう。岐阜大学としてやっていけないなら、名古屋大学に統合されることを経営者は考えるだろうが、両立していけると思っていればそんなこと考えないはずだ。負けてしまったら統合の道(合併吸収してくれる大学)を選ぶか、廃業を選択するしかないだろう。岐阜大学は本当に廃業に近いのだろうか。そんなことあるはずがない。


結論。文科省はたくさん大学を認可しておきながら、都合悪くなったら再編統合とか言うが、大学に責任転嫁としているとしか思えない。そうではなく、認可の取り消しを積極的に行うべきではないだろうか。認可したのなら、取り消しもきちんとやってもらいたい。学部名や学科名を変えるのも奇妙だと思っていたが、この調子だと大学名もコロコロ変わる日本になりかねない。もっと歴史を大切にしていただきたいものだ。


モノローグNO.69.  米国医学部の男女比データが出てきた(2018-10-1

 

日本の医学部では男尊女卑が如実に示されたのは最近のことだった。各大学の男女データがあった(https://www.med-pass.net/rank/danjohi/)。これによると、女子が一番多いのは東京女子医大の100%、これは当たり前のこと。実質で言うと、佐賀大が46%、北海道大が45%、北里大が43%の順のようだ。つまり、女子が半分を占める大学医学部が日本にはないことになる。一方、女子が少ない大学で見ると、琉球大が14%、東京大が17%、京都大が18%のようだ。5人に1人も女子がいないことになる。

 

米国に目を向けてみよう。米国医師会雑誌(JAMA)の911日号に、”Medical Schools in the United States, 2017-2018”という論文が出た。これによると、全米147医学校の調査から、男子は10752人、女子は11054人が医学部へ入学していた(女子50.6%)。女子のほうがやや多いくらいだ。名門大医学部で見ると、ハーバード大では男子84人で女子81人(女子49%)、ジョンズホプキンス大では男子57人で女子63(女子52.5%)、スタンフォード大で男子50人で女子50(女子50%)であり、全米とほぼ同じ傾向だった。日本はたぶん女子割合3035%だろうから、米国の50.6%に比べ、著しく女子を軽視していたことは明らかである。

 

米国は学部卒業の後、大学院として医学部へ入学する。そして、4年間履修して卒業する。卒業生の男女比を見ると、同じ147医学校の調査から、男子は10398人、女子は9352人のようだった。およそ10%の学生が脱落していることがうかがわれる。この状況は日本に比べて約5倍も多い(日本の医学部退学率は2%程度、読売新聞2018920日掲載のグラフから読み取ると)。米国のほうが厳しい教育というのは知られており、医学部でもその実態の現れであろう。一つ気になったことがある。入学時は女性のほうが少し多いくらいだが、卒業時は女性のほうが少なくなっている。これはどうしてだろうか。大学別の数値を眺めると、有名大学では卒業時も同じ傾向だったが、一部のあまり知られていない大学で女子の卒業者が極めて激減していた。これが何を意味するのかは分からないが、そういった大学では男尊女卑の進級テストをしていたのか、女子のほうで向学心ゆえ有名大学へ移っていったのか、これは皆さんに想像してもらいたい。

 

医学部の卒業生人数について、日本は毎年10,000人くらいだろうから、米国は日本の約2倍の20,000人程度のようだ。人口が2.6倍(328百万人、126百万人)ということだから、日本の医師が少ないということは全く当たらないようだ。


モノローグNO.68. 女性医師差別問題―再登場(2018-9-18


ついに9/4、文科省の調査結果が出た。翌9/5の新聞各紙には、大学医学科の男女別合格率が公表された。少し前に民間が行った調査とは少し異なり、男女格差が最も大きかったのは東京医大ではなく、なんと順天堂大学だった。最近、授業料などを安くして、優秀な学生を多くとりはじめ、入試の偏差値もぐっと上げている大学だ。わが富山大学は80校中32位だったので、真ん中よりは少し男女格差が大きい部類だったようである。そして、最も女性の合格率が高かったのは弘前大学だった。モノローグ64で最も女子学生が多いのは弘前大学らしいと書いたが、受験者男女比が1だとしたら、まさにN先生がおっしゃったことは正解だったことがわかる。


それはともかく、ちょっと気になったのは、民間調査と文科省調査での合格率に関する男女格差の順位がことごとく異なっていた点である。民間調査では東京医大が第1位だったが、文科省調査では東京医大は第14位だった。なぜかは分からない。分母は民間調査が76校、文科省調査は80校なので、それほど変わっていないのである。もう一つ気になったのは、合格率の数字だ。名古屋大は男子の合格率44%にも及んでいる。これでは倍率2倍少しになる。こんなに倍率が低いことはないだろう。これらの調査結果は信用していいものだろうか。もちろんのことだが、男女で得点調整したと回答した大学はゼロだった。東京医大だけだろうか。そんなことはないだろう。女性の苦手な数学の問題を難しくしたり、面接で女性の点数を下げたりはしているのではなかろうか。


もう一つだけ言っておきたい。女性医師は出産を機に辞めたり、ローテーション異動にも協力していただけない。だから女性は取りたくないという声を聞く。出産という女性特有のことがあるから、半年程度は休職せざるを得ないだろう。しかし、それが終われば職場復帰できることは、民間企業で立証済みである。それが病院ではなぜできないのだろうか。


出産休職して現場に戻ると厳しいという人がいるが、それも正しくないと思う。男性医師でも2年間、留学と称して、海外の大学で研究に没頭するのが慣習的にある。この間は臨床ができないので、戻ったら薬が変わっていてとまどったとか、新しい医療機器が入って使い方を教わらないといけなかった、などという話を聞いたことがある。たった半年のブランクで戻るなら、職場復帰できない訳がない。病院の職場環境を改善すれば、多くの女性医師もずっと医師でいられるはずだろう。


それだけでは十分でないことも事実だろう。家庭における夫婦の関係がある。家事は妻のすることとなっている現実がある。これも変わっていかないと、職場環境だけでは無理に違いないだろう。


看護師もせっかく国家資格を取ったのに、結婚や出産を機会に、大勢の人がやめている。どうして専業主婦になるかといえば、核家族など家庭の事情もあるだろうが、職場の環境もあるだろう。看護師でも医師でもせっかく税金をかけて教育したのに、早期に職を辞してしまうと、それは税金の無駄遣いになる。そういった観点も考えてもらいたい。これ以上税金の無駄遣いにならぬよう、政府も危機意識をもってこの問題に取り組んでもらいたい。


 

最後に一言、今朝のNHKラジオで某大学教授がこう言っていた。「女性医師問題の解決には、欧米のようにパートタイムの働き方も許容する世の中が必要だ。そうなると、医師の数が足りなくなる。」と。前半部はその通りだと思うが、後半は異論がある。女性医師問題が解決すると、無駄に辞めていく女性医師が減る。その分により、パートタイムで足りない分を補完できるはずだろう。医師の数をやたらに増やすと、失業という新たな問題が発生するかもしれない。それも淘汰されるからいいという人は自助努力を唱える安倍派だろうが、私は淘汰とかM&Aというのは好まない。もちろんさぼるのは良くないが、がんばっていても淘汰されてはどうしようもない。努力賞もあっていいと思う。


モノローグNO.67. Out-動詞が使えると一人前(2018-9-6


英語を使える人は多いが、社会人になってYMCAで英会話を学んでいたとき(25歳位)、生徒の中にOut-動詞を使って褒められていた人がいたのを覚えている。どんな動詞だったかまでは覚えていないが、今でもなかなか会話の中ですっと出てこない。でも、筆記では書いてみようと思うことはある。あえて分かりやすいようにハイフンを付けるが、ふつうは付けないことを申し述べておく。


Out-動詞○○」の意味は、ざっくり言うと「〇〇より動詞」である。「Out-」には超えるといった意味がある。例をいくつかあげよう。「Out-score○○」は、「〇〇より点数がよい」という意味だ。「Out-weigh○○」は「〇〇より重みがある」、すなわち「〇〇より大切だ」という意味である。「Men outlive women.」はどうだろうか。「Outliveは〇〇より長生きする」だから、「男性のほうが女性よりも長生きする」という意味だろう。「This stage outperforms the previous stage.」はどうだろうか。「今日の演奏は前回より素晴らしかった」となる。英文を読むときは、「Out-動詞」を気にしてもらえると幸甚です。


モノローグNO.66. EBMからPrecision medicineへ(2018-9-3

1990年ころに、David Sackettらが根拠に基づく医療(Evidence based medicine)、略してEBMを提唱した。そういえば、自治医大大宮医療センターに勤務していたとき、招聘したSackett博士を成田空港までお迎えにあがった。付き人としてDeborah Cook女史も一緒だった。EBMの根拠となるデータは主にRCTであった。厳密な比較臨床試験のことだ。臨床試験で立証済みの治療を推奨すべきとした。たとえば、高血圧患者についてACE阻害薬は効果的であるとか、カルシウム拮抗薬も効果的だというRCTが実施された。そうしたデータにもとづき、高血圧患者にACE阻害薬やカルシウム拮抗薬は第一選択薬というガイドラインが登場したわけである。


その後、EBM20年余りにわたって全盛を迎えた。これは主として集団のデータをもとに、すべての人に適用するというものであった。疫学的コンセプトを臨床へ適用したという意味から、臨床疫学という名前で呼ばれることもある。このEBMもそろそろ限界を迎えようとしている。すなわち、集団に対して一律の治療をしていても、これ以上アウトカムは向上しなくなってきたのである。ある意味、RCTによるエビデンス創生に赤信号が灯ったと言える。


これからは高血圧患者ならだれでもACE阻害薬ではなく、高血圧患者の中の部分集団(サブカテゴリ―)を探索し、より精密な医療のための根拠データを求めようとなった。正確かどうかはわからないが、冠動脈心疾患を伴う高血圧患者ではカルシウム拮抗薬、慢性腎疾患を伴う高血圧患者ではACEARB薬、などという精密化を行う。これが精密医療、Precision medicineである。RCTにはもう一つの欠点がある。プラセボより有意に優れるといったことを立証するのは得意だが、同種同効薬同士を比較して序列化することは苦手である。RCTだけをしていては、同種同効薬の使い分けの根拠となるデータが出てこない。そこで、2009年にオバマ米国前大統領は、Comparative Effectiveness Research (CER)のための法案と予算化を決めた。同種同効薬同士を比較するための研究が始まりだした。さらに2015年、同じくオバマ前大統領はPrecision Medicine Initiativeというものを提唱した。言うまでもなく、Precision Medicine(精密医療)を推進することの宣言である。


ところで、精密医療と個人別医療(Personalized medicine)とを混同している人がいる。これは別物だと思う。個人別医療とは、患者ごとに合わせた医療を行うものだろう。特定の患者の家族構成や考え方をよく聞いて行う医療も個人別医療の一つだと思う。一人一人に最適な治療を提供するものだが、精密医療ではもっと小さな集団ごとに最適な治療を求める。ざっくりと「高血圧には」ではなく、「冠動脈疾患を伴う高血圧には○○薬を」などと。がんの免疫療法でも抗体反応に基づいて投与の有無を決めるが、これも精密医療の一つだろう。特定の治療が功を奏する患者を選別することこそが神髄だと言えよう。そのためのバイオマーカー探索研究は今隆盛しているが、これも精密医療には欠かせない研究領域と言える。統計用語で言うと、予測因子(Predictive factor)の探索研究と言える。一昔前は予後因子(Prognostic factors)がよく研究されていたが、今は予測因子を探すことで、精密医療を目指す研究が流行している。


EBMで力を発揮した統計学は、精密医療では必ずしも万能ではないかもしれない。それよりも機械学習(Machine learning)のように、網羅的アプローチが役立つのではないかと思う。そこに専門医の経験を取り込む、いわゆる人工知能(AI)の活用も加えていくべきだろう。漢方方剤の選択にどの証が決め手になっているか、このような研究でも機械学習のような手法が有用かもしれない。専門医によるお手本的処方を学習することで、新米医師は育っていく。どういった患者にはどの治療が最適なのかに対して、AIで実現できる時代もそう遠くないだろう。かといって、医師がいらなくなることはないと思う。やはり、最後の個人別医療が残っている。AIでは無理だろう。皆さんも気づいていると思うが、メール会議では不十分の案件はあり、そのとき対面会議は必須なことと似ている。


統計学でも精密医療に必要な方法論が開発中である。サブグループカテゴリー化という手法である。この薬が功を奏するのは高血圧患者の中でもどういった患者なのか、そうした部分集団(サブグループ)を見つけ出す手法の開発である。最近データサイエンスが巷を賑わさせているが、精密医療でもコンピュータ系の専門家と統計系の専門家、そして現場の医師がチームを組んで進展することを望みたい。


最後にコンピュータ系(機械学習)と統計系(統計解析)の違いをまとめてみた。なお、このモノローグを書くきっかけとなったのは、Annals of Internal Medicine73日号に「Machine Learning and Evidence-Based Medicine」という記事を目にしたことだ。


コンピュータ系(機械学習)

統計系(統計解析)

Precision medicine向き

EBM向き

個別医療

集団医療/ガイドライン

研究計画書は不要

研究計画書は必須

事前の仮説は不要(仮説形成目的)

事前の仮説は必須(仮説検証目的)

関連(パターン)分析―網羅的

回帰モデル―事前設定

Big data(自然に集まる)

Small data(計画的に集め, 質が高い)

どのデータも均一化

信ぴょう度からデータを序列化

Multiple testingで確認

Multiple studiesで確認



モノローグNO.65. 〇〇大学大学院教授は変だろう(2018-8-30

 

富山大学大学院教授などと紹介されることがある。大学大学と、大学が二度現れるのに違和感を持ち続けていた。始めは誤りじゃないかと思ったくらいだ。「大学院」という文言は不要ではないかとずっと思っている。富山大学教授と何が違うんだろう、大学だけでいいではないだろうか。

 

大学の教育課程を言うときは、学部(Undergraduate)と大学院(Graduate)を区別するのは当然だと思う。学部(School)・学科(Department)は共通だと思うが、授業内容(Curriculum)が異なるからだ。しかし、自分の所属を言うときに、Graduateを冠に付けていう欧米人は見たことがない。Professor of Yale Universityと言うが、Professor of Yale Graduate Universityなどと紹介はしない。論文の例を挙げよう。日本人はUniversity of Toyama Graduate School of Medicine and Pharmaceutical Sciencesなどと所属を書くが、やはりGraduateは不要だろう。しかも、MedicinePharmaceutical Sciencesが合わさった学部というのも奇妙に映る。学部は医学部と薬学部に分かれているが、大学院は医学薬学研究部となっているからだろう。学部も大学院も同じ構成のほうが分かりやすいと思う。医学薬学研究部というと、あなたの専門領域がよくわからない。University of Toyama School of Medicineとか、University of Toyama School of Pharmacyと書いたほうが自然ではないか。ちなみに、正式名称は、先頭には「The」が付くらしい。日常は「The」を付けないが、たとえば正式な卒業証書などは「The」が付いている。特定の固有名詞には「The」を付けることはご存知のとおりだ。

 

医学部について言うと、アメリカでは医学部はすべて大学院である。学部卒業生しか入学できないからだ。いわゆる大学院大学と言う。医学以外にも、法学(Law School)、公衆衛生学(Public Health School)、経営学(Business School)などが知られている。大学院だからといって、Graduate School of Medicineなどと決して言わない。School of MedicineあるいはMedical schoolと呼ぶ。

 

欧米では教授というと、学部も大学院もどちらの学生も教えている。あの人は学部担当の教授で、あの人は大学院担当の教授なんてことはない。しかし、日本では学部担当だが、大学院担当ではない教授という人たちがいる。それを区別するためとおっしゃるかもしれない。妥当な理由に聞こえるかもしれないが、姑息な理由にも聞こえる。大学院担当だからと言って、たいして威張る話ではない。どっちも同じようなものだ。


モノローグNO.64. 医学部への合格率を巡って(2018-8-27


813日、読売新聞による調査結果が示された。合格率(=合格者/受験者)に関する76校の調査結果である。合格者の男女比はネットや広報で公開されているが、受験者の男女比は当事者しか分からない。その意味で、この結果は初めて公開された貴重なデータといえる。なお、調査に回答しなかった大学が東京大など5校あったようだ。残念なことに富山大も非回答だったようだ。下記は、男性上位のトップ5である。

 

大学名

男性(%)

女性(%)

格差

東京医大

3.48

1.07

3.25

山梨大

8.50

3.23

2.63

聖マリアンナ医大

5.07

2.07

2.45

日本大

5.12

2.35

2.18

岐阜大

5.91

2.96

2.00

 

問題となった東京医大では、合格率の男女比は3.25(男:女)であった。そんなに男女で学力に差はないだろうから、何らかの操作がなされたことをうかがわせる。そのほかの大学でも、男性のほうがかなり合格率の高いことがわかる。この資料には示していないが、逆に女性のほうが合格率の高かった大学も少しだがある。第一は島根大学で男女比は0.61(男:女)、第二位は福井大の0.67(男:女)だった。全体で見ても、男性の合格率は8.00%、女性の合格率は6.10%であった。受験者が同数だとすると、女性の入学者は6/(8+6)=6/14=43%と推計される。およそ女性の割合は40%と言われているので、ちょっと高い(鯖を読んでる)気もするが、ほぼ正しく報告しているように思う。女性割合が一番多い大学はどこだろうか? 東京女子医大は当然100%だが、どなたかが調べたところ、弘前大学で最も女性割合が高かったそうだ。

 

実力は男女で違いはなく、受験者数も男女で違いがなければ、入学者は男女半々になる。米国では女性割合はほぼ50%のようである。北欧では50%を超えているところもあるようだ。実力に差は考えにくいので、医学部は女性のほうで人気が高いのかもしれない。受験生が女性のほうに多いことをうかがわせる。たとえば、理工系に男性が多いのと似た状況だ。

 

ほんとうに女性医師が多いと困るのだろうか。外科系は女性医師には向いていないとか言うが、職場環境が過酷だから女性医師が辞めてしまうのではないだろうか。男性にしかできない業務はあるかもしれないが、そこは男性医師が手伝えばよい。若いうちは夜勤をしなくてはいけないが、女性医師は断るから困る。このようなことは企業でも一昔はあったが、助け合いやローテーションで解決している。看護師で見てみよう。看護師は女性が圧倒的に多いが、夜勤もちゃんとこなしている。医師だけ女性が困るということはないと思う。女性のほうが患者さんの気持ちを聴くのは上手であり、患者さんに寄りそう医療の実践には女性のほうが向いていると思う。家庭医療などでは特にそうだと思う。女性医師が眼科や耳鼻科に偏って困るというが、それは他の科が厳しすぎるだけのことではないだろうか。

労働時間調査をすると、医師はふつうのサラリーマンでは考えられないほど遅くまで勤務している。女性は救急対応ができないという人もいるが、勤務体制が変われば、女性でも対応することだろう。企業で出来たのだから、病院でも出来ると期待する。キャビンアテンデントも昔はほぼ女性だけだったが、いまは男性も増えている。看護師も同様だ。男性または女性に志願者が偏っているのならやむをえないかもしれないが、志願者が男女同じの時、その機会を排除するようなことはやめるべきだろう。

ただ一つだけ言っておきたい。一般の職業と医師という職業はちょっと違う。たとえば、〇〇科に行く医師がいなくなったら困る。〇〇病院で働きたい医師がいなくなっても困る。企業であれば、そこへ行きたい人がいなくなったら倒産するだろう。しかし、病院が倒産したら大変なことになる。いまの日本の家庭をみると、女性の仕事都合で引っ越しするような事例は少ない。その意味では、男性が犠牲になっているのだ。だから、病院としても犠牲になってくれる男性を望む。会社でも同様だ。転勤を受けてくれる男性のほうが使いやすい。でも、使いやすい、言うことを聞いてくれるからという理由で、そういう人がほしいという理屈は通じない。でも、いつも本音と建前のせめぎあいがあり、明解はすぐには見つかりそうもない。


モノローグNO.63. コンパクトシティを成功させるには(2018-8-20


大店立地法が過去に国交省により制定され、大型店舗が郊外へ数多く進出した。富山では、「コストコ」、「アルプラザ」、「アピタ」などがそうだ。私にはアメリカの真似というか、圧力の結果とみえる。アメリカでは1980年代、郊外に大型モールがたくさん出来た。アメリカは車社会なので、車で郊外へ出かけるのは苦ではない。街中の狭い土地へ進出することは不可能である。郊外は土地も安いのでコスパも大変よい。しかし、それによって街中がさびれたような感じはなかった。大型店舗こそないけど、人気店はたくさんあったように思う。それでは、日本はどうしてこれにより中心市街地が過疎化したのだろうか。確かに、富山のアーケードも閉まった店が目立つ。


この大店立地法により大型店舗の郊外進出を推進しつつ、一方でコンパクトシティと称して、元に戻そうとしている。なんだか矛盾しているように見えてしかたがない。そして、コンパクトシティは誤った政策のような気がする。国は補助金を出してまで進めようとしている。富山市は街中へ住めば、市が住居費(ローン)の一部を補助している。税金を出してまで街中へ集中させようとしている。その結果として人口は増えたかもしれないが、店舗はそんなに増えていない印象だ。少なくとも、郊外で賑わっているような店は街中へ進出してこない。たとえば、「丸亀製麺」、「糸庄」、「すし食いねぇ」は、街中へは入って来ない。コスパが悪いからだろう。街中は土地代が高いので、面積当たりの収益をかなり上げないとペイしない。そこへもってきて、街中へ移ってきた人は高齢者に偏っている。高齢者はあまり外食もしないだろうから、進出したお店は賑わない。悪循環のように思う。


高齢者はどうして街中へ進出してきたか。補助金もあるが、もっと大きな理由がある。もう自動車が運転できなくなり、郊外にいたら買い物さえもできないからだろう。街中なら車がなくても、近くに買い物する店がある。これが理由だろう。一方で、若い人も当然街中に住んでいる。私もまだ運転できる世代だから、若くはないが年寄りでもない。この世代から見ると、街中に住んでも、結局郊外まで車で買い物に行く。街中でも「ピアゴ」や「デパ地下」で買い物はできるが、品薄だし値段も高い。外食でさえ郊外まで行くこともある。それはなぜか。街中のお店に魅力を感じないからだ。もっと、魅力ある店舗が街中に集まってこないと、コンパクトシティと言っても恩恵はまったく感じない。

補助金は税金であるし、その使用には限界がある。補助金がなくなれば、また市場原理に従って元に戻ってしまうだろう。コスパが良い郊外へ行って、店舗を開くことだろう。そしたら、コンパクトシティ構想は失敗に終わる。


ではどうすればよいか。東京にヒントがある。東京は街中に人が集まってくる。それらは郊外に住んでいるサラリーマンだ。そこに住んでいる人ではない。地方でも、街中に仕事へ出かけるサラリーマンはいる。そういう人たちをターゲットにしたような洒落たレストランやブティックがあれば、みな帰りに寄っていくだろう。そうしたサラリーマンは、電車やバスで通勤しないとだめである。車で来たら、お酒を飲めないので、すぐに帰宅してしまう。車社会からの脱却ができれば、東京と同じようにコンパクトシティが完成することだろう。住民を街中へ呼び寄せるだけでなく、公共交通で通勤させ、帰りに寄りたくなるようなお店の誘致を行う。車通勤は禁止くらいしたほうがいいかもしれない。こうして活気が出てくればしめたもの。もちろん、私のように街中に住んでいる者としても、そのような店ができたら出かけたくなる。いまは悪循環している。街中に人はたくさんいても、魅力ある店舗が少ないため賑わない。お客が入らないと店舗は撤退してしまう。するとシャッターが閉まった状態になる。魅力ある店舗に街中へ入ってきてもらい、街中では住民や通勤者などがそこへ出入りするようになる。お客が増えればコスパが上がり、どんどん活気づくようになるのではないだろうか。


モノローグNO.62. ロシア疑惑かロシアゲート事件か(2018-8-9

 

ウォーターゲート事件というのがかつてあった。首都ワシントンDCのジョージタウンにある、ウォーターゲートという名のビルで起きた事件だ。私も見に行った記憶があるが、曲線美の丸い大きなビルだったと思う。ケネディセンターで三大テノールの一人、ドミンゴの誕生日演奏会へ行ったときだったと思う。共和党がウォーターゲートビル内の民主党本部に盗聴器を仕掛け、発覚を恐れたニクソン大統領がその隠ぺい工作をしたことで、弾劾裁判となり大統領が辞任に追い込まれた事件だ。


今般、先の大統領選挙のさいに、ロシアと共謀した疑惑が上がっているトランプ大統領。これは、Russia Gate Investigationと呼ばれている。なぜか、和訳はロシア疑惑になった。ゲート(Gate)が消えてしまったのだ。今回のGateは固有名詞ではないが、ロシアの関与、つまりロシアの門を通ったかどうかが問われているので、ロシアゲート事件と呼んだほうがいいかなと思う。どちらも大統領のスキャンダルなので、ウォーターゲート事件に引っ掛け、ロシアゲート事件と外国では呼んだのだろう。ゲートの意味だが、前回はビルの名称、今回はロシアとの入口の門と異なるが、どちらも大統領の隠ぺい工作が強く疑われ、ニクソン大統領は辞任に追い込まれ、トランプ大統領も辞任に追い込まれそうな大事件だ。


モノローグNO.61. 安倍内閣の特徴(2018-8-2


庶民は政治を論じてはならない。日本にはいまだに、このような雰囲気があるように思う。居酒屋で友人と飲むときに政治が話題になるだろうか? まずないだろう。上司の悪口が関の山。学校で友人と政治の談義をするだろうか。それより彼女、彼氏だろう。授業中もなぜか、自分の政党はこれだ、と言ってはいけないのが世の常だ。政教分離とか言われかねない。しかし、30年以上前アメリカに住んでいたころ、職場(といっても私はRAとしてだが)では、選挙前になると自分の政党がいいと談義している姿をよくみた。私はそこへ入り込む余地がなかった。英語がだめなのもあるが、政治を知らなすぎだったと思う。


今日はあえて、安倍内閣について談義をしたい。安倍内閣と庶民の違いを、下記の表に対比してみた。


安倍内閣

非安倍で庶民的見方

経営者向き

労働者向き

株式派(2倍に上昇)   貯金派(金利を上げる)

防衛力を保持

平和重視

原子力利用

原子力反対

 

 





安倍内閣は経営者の方向を向いていると思う。経営者のための政策が多い。岩盤突破政策、法人税減税、IR法案などすべてそうだ。労働者にとっては、税にしても何にしても都合悪いものが多い。金持ちにとっては、安倍内閣は都合いい内閣だろう。株価は2倍以上に上昇した。一方、貯金するのが精いっぱいという庶民にとっては、ゼロ金利政策のためにまったく財産は増えない。だから、高価なものには手を付けない。昼食も500円コイン。節約モードだ。大多数の庶民がこれだから、物価は上がらない。黒田バズーカを鳴らしても無駄だった。ようやく物価2%上昇の旗を下げるみたい。いずれにせよ、安倍内閣の政策では、大多数の庶民はぜんぜん潤っていない。金利を上げましょうという政策を訴える政党がないのは寂しい限りだ。消費税撤廃を主張している共産党くらいだろうか、庶民の味方なのは。

 

防衛体制についてはどうか。安倍内閣はじめとする保守派は防衛力を保持し、周辺事態に備えて、もっと防衛費を増やすべきと主張する。自民党にこの考えは強いが、野党でも近い考えの人が多い。その反対が平和主義だ。平和を言いすぎると、お前は平和ボケしていると叱られる。しかし、戦争で負けた日本だからこそ、平和をもっと掲げてもいいのではないだろうか。平和重視と思われる政党は共産党と社民党だけだろう。

 

最後は原子力だ。原子力をうまく利用するというのが安倍首相だ。同じ自民党でも小泉元首相は原子力反対。原子力でひどい目に会っているのだから、原則やめる方向が普通の考え方ではないかと思う。電力不足になるというが、ここ2週間の厳暑で、エアコンをどんどん付けなさいと言っている。それでも、電力不足で停電しそうだという声を聞かない。ほんとうに原子力がないと生活破綻するのだろうか。電力会社の都合だけではないだろうか。経営者志向の安倍内閣で原子力を止めることはできないだろう。

 

庶民を志向して貯金金利を上げ、防衛予算を削って平和重視を掲げ、原子力反対を主張するような、一貫した政党が出てきてもらえないかと思う。防衛力については保持すべきというのは反対の庶民も多いかもしれないが、公共料金を下げたり金利を上げたりすることへは80%以上の庶民は賛成だろう。原子力廃止も60%以上が世論ではないかと思う。共産党と社民党は、金利上昇、防衛費削減、原子力反対、すべてそろっていそうだ。でも賛成しかねるのはどうしてか。自問してみた。努力する人が報いられることを庶民は望むが、それがこの両党では叶わない。だれもが平等で、一律になるんではないかと思うからではなかろうか。


モノローグNO.60. ラテン語とギリシャ語の数字(2018-7-23

 

モノローグ58に引き続いて、ラテン語とギリシャ語についてである。今回は、否定の接頭辞ではなく、数字がテーマである。数字の1から5まで、それぞれについてラテン語とギリシャ語がある。統計・医療用語で思いつくものを挙げておいた。

数字

ラテン語

ギリシャ語

1

Uni-

Univariate単変量

Mono-

Monotherapy(単独療法)

2

Bi-

Bivariate二変量

Di-

Dual therapy(併用療法)

3

Tri-

Triplet therapy(三剤療法)

Tri-

Triplet therapy(三剤療法)

4

Qua-

Quartile4分位

Tetra-

Tetrapod四足獣

5

Quin

Quintile5分位

Penta-

Pentagon(五角形)

 

一昔前に「Uni」という鉛筆があったが、「唯一無二」という意味合いだったのだろう。「Uni-que」や「Uni-form」などもそうである。医学用語では「Uni-lateral」(一側性)、統計用語では「Uni-variate」(単変量)がある。なお、一側性に対応する両側性は「Bi-lateral」である。あとで述べるが、「Bi」はラテン語で「2」を表す。「両側」は統計用語では「りょうがわ」(Two-sided)と発音するが、医学では「りょうそく」(Bilateral)と発音する。

 

Mono」のほうは、「Mono-rail」(モノレール)や「Mono-poly」(人生ゲーム→独占するという意味だが、人生の中で家などを独占することから名前が付いたのだろう)がある。このサイトである独り言は「Mono-log」であり、1人でするお話のことである。ちなみに、2人でするのは「Dia-log」(対話)である。これもギリシャ語が起源だ。医学用語では、「Mono-therapy」(単独療法)があるだろう。統計数学用語では、「Mono-tone」(単調性)がある。

 

数字の「2」に移ると、ラテン語が「Bi-」、ギリシャ語が「Di-」である。「Bi-cycle」(自転車)は車輪が2つあるためである。「Bi-lingual」(二か国語を使える人)もラテン語からだ。一方、「Dual therapy」(併用療法)の「Dual」は、ギリシャ語の「2」を表す「Di」が語源と思われる。「Di-lemma」(ジレンマ)も、2つが板挟み状態を指すのだろう。「Di-vide」(分ける)も二分するという意味なのだろう。

 

次に数字の「3」だが、これはラテン語もギリシャ語も同じで、「Tri-」のようだ。「Tri-angle」(三角形)、「Tri-plet」(三剤療法あるいは三つ子)、「Trio」(三重奏)、「Tri-ple」(三倍)などが思いつく。ちなみに、二倍は「Double」であり、ギリシャ語の「Di-」が起源である。

 

数字の「4」はラテン語が「Qua-」であり、ギリシャ語が「Tetra-」である。「Quartile」(統計用語で四分位)や、「Interquartile range」(四分位範囲)はご存じかもしれない。「Quartet」(カルテット=四重奏)も同じ起源だ。ギリシャ語の「4」は「Tetra-」であるが、これは医学・統計学ではあまり使われない。「Tetra-pod」が四足獣を意味するが、あまり聞いたことはないかもしれない。

 

数字の「5」はラテン語が「Quin-」であり、ギリシャ語が「Penta-」である。五分位のことを「Quintile」と呼ぶ。統計CRO会社で「Quintiles」があるが、これを文字って名前を付けたのだろう。「Quintet」(クインテット、五重奏)もよく聞くだろう。一方、「Penta-gon」(ペンタゴン)は五角形という意味だが、アメリカ首都のワシントンDC近く(実はバージニア州)にあるアメリカ国防総省の本庁舎の名前でもある。実際、この庁舎は五角形をしている。函館の五稜郭も同じ形だ。9.11事件のときに、ハイジャック機はこのペンタゴンへ突進した。

 

ところで、有機化学のアルカンをご存じだろうか。メタン(炭素が1つ)に始まり、エタン(炭素が2つ)、・・、ペンタン(炭素が5つ)、ヘキサン(炭素が6つ)、オクタン(炭素が8つ)、・、デカン(炭素が10個)と続く。化学用語にはギリシャ語が多いのかもしれない。「クイズ・ヘキサゴン」を覚えている人がいるかもしれない。そこでは6人の出場者がいたので「ヘキサ」と付いたのだろう。「ゴン」は、角を意味するギリシャ語である。「オクトパス」(タコ)の足が8本でも分かるように、「Oct-」(オクト)は8を意味する。「オクターブ」は、「ド」から「ド」までの8音程から来ているのだろう。それでは、「October」はなぜ10月なのか。これにはちゃんとした理由がある。現在の暦はグレゴリオ暦だが、遠い昔カエサル暦というのが使われていた。そこでは、今の3月が1月で、今の2月が12月だった。現在の10月は旧暦の8月に当たるので、「October」となったというのだ。ちなみに、「December」も旧暦の10月(現在の12月)から来たと言われる。「Decade(10)や「Deci-liter」(デシリットル=リットルの1/10)でも分かるように、「Dec-」は10を意味する。なお、「Milli-」は100を意味するので、「Milli-liter」(ミリリットル=リットルの1/100)である。ちなみに、「Milli-onnaire」は億万長者と訳すが、英語でMillion dollar$1Mと書いて1,000,000ドル(100万ドル)なので、日本円にすると約1億円になる。そこで1億円稼ぐ人、億万長者となったのだろう。


モノローグNO.59. FDA100億円かけてRWEシステムを構築する計画(2018-7-17)


FDA長官であるScott Gottlieb博士が、710日付でメッセージを書いている(https://blogs.fda.gov/fdavoice/index.php/2018/07/fda-budget-matters-a-cross-cutting-data-enterprise-for-real-world-evidenceASA(米国統計学会)-Biopharmaceutical sectionのメールで、今日知った。


それによると、2019年(来年)度の国家予算として、リアルワールドデータを取り込んだシステム開発のために100億円を投じる計画をFDAが示した。まだ決まったわけではなさそうだが、ここまでオープンにすることだから、大筋決まっている可能性が高いと思われる。


1,000万人の電子カルテ(EHR)を基盤にして、レセプト(Insurance Claims)、患者レジストリー、デジタル健康機器などの情報も取り込むそうだ。このシステムは、市販後(PMS)の医薬品・医療機器等の安全性・有効性の評価にさいして、大変有用なデータベースになることが期待される。市販後に大規模の臨床試験が行われることがあるが、このシステムを利用することにより、もっと効率的な臨床試験を組めるようになるだろうとしている。ベイジアン手法やプロペンシティ手法など、現代的な統計手法を用いることにより、対象の絞り込み、適切なエンドポイントの設定などを可能にすることだろう。手法名については、このブログの中にも明記されている。統計専門家の活躍場面も広がっていくことが予想される。


異なる情報源の接続、電子カルテから取り込む情報の標準化など、困難な作業がいろいろと予想されるが、行き末を見守りたいと思う。


モノローグNO.58. 否定の接頭辞―ラテン語とギリシャ語(2018-7-2


英語での否定の接頭辞、4つほどあるようだ。よく使われる順に、1) un-」、2) in-」、3) non-」、4) a-」である。「Un-equal(不均等)」のように使うが、「un」は元々ラテン語が語源のようである。また、「in」も同様にラテン語が語源であり、「un」から派生したようである。たとえば、「in-finity(無限)」などがある。この「in」については、次に来る文字によって、「im」になったり、「ir」になったり、「il」になったりする。たとえば、「im-balance(不均衡)」、「im-possible(不可能)」、「ir-relevant(無関係)」、「il-legal(非合法的)」などがある。


次の、「non」であるが、これは「un」や「in」からフランスに移ってから変わったもののようだ。フランス語で「いいえ」は「Non」というから、否定の接頭辞に変化するのもよく分かる。たとえば、「Non-clinical(非臨床)」などがある。


英語の語源には大きくラテン語とギリシャ語があり、ラテン語が断然多いものの、両者が関与している事例もある。否定の接頭辞については、「a」がギリシャ語である。たとえば、「a-typical(非典型的)」、「a-symmetry(非対称)」、「a-symptomatic(無症候性)」などがある。


蛇足になるが、数字の「1」について、ラテン語語源は「uni-」であり、ギリシャ語語源は「mono-」である。たとえば、「unique」(唯一)や「uniform」(一様)はラテン語、「monorail」(モノレール)や「monotherapy」(単独療法)はギリシャ語が語源である。今回から「ひとりごと」ではなく、「モノローグ」に変更した。この「モノローグ」は、お分かりのように、ギリシャ語が語源である。


ひとりごとNO.57. 健康寿命はどうやって計算するの?(2018-6-26


健康寿命、英語では”Healthy Life Expectancy”と呼ばれる。実は2000年に、世界保健機関(WHO)がこの健康寿命というものを定義した。それは、「心身ともに自立し、健康的に生活できる期間」と定義された。2013年時点で、日本人男性では71歳、日本人女性では74歳のようである。ふつうの寿命より、健康寿命はおよそ10歳若い。逆に見れば、健康でなくなってからおよそ10年で死亡するとも言える。


そもそも「健康」かどうかなど、どうやったら分かるのだろうか? 健康の定義は、これまたWHOの定義が有名だが、19466月のWHO憲章に見られる。健康とは、「完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」と書かれている(日本WHO協会)。「福祉」というのが気になって調べてみた。”Well-being”を「福祉」と訳しているようだが、むしろ「良好な状態」のほうが実を表していると思った。そこで、「肉体的、精神的及び社会的に完全な良好状態であり、・・・・」としたほうがよいのではなかろうかと思う。健康寿命とは、”Full health”(完全な健康状態)で生活できる年数と言える。


寿命は生年月日と死亡日から容易に、かつ正確に(日本では)算出できるが、一人一人についての健康寿命など分かるはずがない。健康は定義されるも、それは主観的である。個人個人に、「いつから健康でなくなりましたか?」など聞いていては、逆に誤った健康寿命になることだろう。それでは、どのようにして健康寿命を出しているのだろうか。WHOが世界規模で実施している調査データより推計している、というのが正解である。算出とか計算ではなく、「推計」というところがミソである。多種にわたる疾患の罹患状況を性・年齢別に調査し、それらのデータから各国の健康寿命を推計している。WHO Global Burden of Disease (GBD) StudyWHO Multi-Country Survey Study (MCSS)World Health Survey3つのデータが使われているようだ。世界全体の死亡例の11.5%が喫煙に起因していたと公表されたが(Lancet 2017;389:1885-1906.)、そこでもWHO GBD Studyデータが利用されていた。


しかし、どうも日本人の健康寿命の推計値、少し低すぎるのではないかと感じている。周りの高齢者をみていると、男性70歳、女性74歳では、まだ大半の人が健康に見えてしようがない。皆さんはどう感じているだろうか。でも、私の印象は間違いだと気づいた。私の見ている高齢者は、健康的な人に偏っていることに気づいた。病気がちの人に、街中で私が会うはずがない。逆に、街を歩いているような高齢者は、健康のほうへ偏っていて当然だと気づいた。第二の理由。若くして亡くなる人がいるため、寿命の分布は左(0歳)のほうへシフトしている。そのため、平均寿命(公表値)は寿命の中央値より低くなる。人間の直観はむしろ真ん中の人、つまり中央値である。公表値より高くて当然なのだ。私の印象は正しかったが、WHOの公表した健康寿命も正しかったことになる。WHOが貴重な調査データから推計しているのだから、たぶん正しいのだろう。こうしたWHO健康寿命プロジェクトに日本人も関与しているのかは知らないが、ぜひともこうした領域でも活躍する日本人にもっと出てきてもらいたい。


ひとりごとNO.56. 加計理事長の発言になぜモヤモヤするのか(2018-6-21


今週月曜日にやっと加計理事長が謝罪会見した。三重県との会合の際に、安倍首相も後押ししてくれているので早く進めてほしいなどと言ったこと、それは虚言だったとして謝罪した。私はその日に安倍首相とは会った記憶もないし、会ったとする記録も見つからなかった。このような会見だったが、たぶん多くの人はモヤモヤした気分だったと思う。それはなぜだろうか。

 

記録がないから会っていないじゃ、説明になっていない。理事長なのだから、秘書などが手帳などに理事長の予定が書かれているはずである。私だって行動記録くらい、手帳を見ればすぐ思い出す。手帳などを公開して、「その日は岡山でずっと会合していた」などと弁明すれば、「ああそうか」と納得できるはずだ。たとえば、東京出張と書かれていればちょっと怪しいと思うかもしれない。さらなる証拠が必要になることだろう。


悪い人なら手帳などを偽造するかもしれないが、現物を差し出して見せてもらえれば、それは本物かどうか見抜けると思う。ぜひ現物の手帳を公開して、真偽を早く明らかにしてほしいものだ。証人喚問しても、問答だけだと堂々巡りになってしまう。捜査の基本は「アリバイ」確認である。「記録にはなかった」だけではなく、手帳などという証拠があるはずなので、ぜひ現物証拠を確かめてほしい。「会っていないのだから証拠はない」というのは詭弁である。


ひとりごとNO.55. データサイエンティストに求められるスキルは何か(2018-6-14


Amstat Newsの最新号(2018May)に、データサイエンティストに求められるスキル、トップ10が載っていた。掲載順は少し変えてあるが、それは類似したものを近づけたためである。

 Statistics  統計
 Data Analysis  統計
 Data Mining  統計
 R  統計/ソフト
 Matlab  統計・計算科学/ソフト
 Algorithm  計算科学
 Machine Learning  計算科学
 Python  計算科学/ソフト
 SQL  計算科学/ソフト
 Java   計算科学/ソフト

 

データサイエンティストになるためには、統計学の素養・実践に加えて、計算科学の素養・実践が必要なことがわかる。米国では、Department of (Bio)Statisticsに加え、School of Computer Scienceがデータサイエンティスト教育に強く関与している。日本にはStatisticsの学部もないし、Computer Scienceの学部もない。どうせなら、遅いもん勝ち。どちらの学部もあきらめ、データサイエンス学部を新設するのがよいだろう。実際、その方向で進みつつある。

 

文部科学省は201612月には、データサイエンス教育の6拠点を発表した。北海道大学、東京大学、滋賀大学、京都大学、大阪大学、九州大学である。滋賀大学には20174月にデータサイエンス学部が誕生したが、その他の大学はセンターレベルである。20184月には、横浜市立大学にもデータサイエンス学部が誕生した。同時に、広島大学には情報科学部が新設され、データサイエンスとインフォーマティクスという2コースが設けられた。データサイエンス学部がここ2年間に3つも誕生したことになる。


ひとりごとNO.54. 病院の経費で臨床研究センターを整備するのは無駄ではないか(2018-5-14


欧米の臨床研究センター(アメリカではCoordinating center, イギリスではClinical trials unitと呼ぶことが多い)は、国(アメリカならNIH、イギリスならNHS/MRC)によって予算化されていることが多い。そうでなくても、外部からのファンディングで運営されるのが普通だろう。日本の臨床研究センター(AROと呼ぶことが多い)はどうだろうか。AMEDの橋渡し研究拠点や厚労省の臨床研究中核病院がファンディングしているケースもあるが、それらは全国で10数の大学病院にすぎない。それ以外の多くは、病院の経費で運営されているようである。外部から大型ファンドがとれる病院ならよいが、そうでなければ無駄ではないだろうか。資源の無駄遣いとしか思えない。せっかく生物統計家やプロジェクトマネージャを雇用しても、その人たちの仕事がないのが見えている。いくらインフラを整備しても、予算付のプロジェクトが入ってこないと、絵にかいた餅に終わってしまう。グラントやコントラクトなどの大型プロジェクトを獲得できる大学病院だけが、臨床研究センター(ARO)を整備すべきではなかろうか。

 

イギリスには50弱のClinical Trials Unitがあるようだ。アメリカには恐らく30程度のCoordinating centerがあるだろう。これらは日本で言うところのAROである。私がいたUNC-CHにも1983年の時点(つまり35年前)、すでにCoordinating centerはあった。NIHグラントであるLRCプロジェクト(スタチンの一次予防RCT)が動いていた。そのあと、SOLVDプロジェクト(Enaraprilの心不全トライアル)も始まった。こちらは製薬企業スポンサー(確かMSD)のものだったと思う。さらに、ARICプロジェクト(これはNIHグラントのコホート研究)も始まった。どれも億単位のプロジェクトだったと思う。私も統計プログラマーとしてパートタイムで仕事をしていたが、20名近くの人がそこで働いていたように思う。それだけ仕事もあるし、そのための人件費も十分あるからこそ運営できたのだろう。ちなみに、私は週20時間勤務で約700ドル(今の水準だと15万円程度)月給をもらっていた。実際には週10時間くらいしか働いていなかったと思う。いずれにせよ、病院の持ち出しでAROを運営すれば首を絞めるだけだろう。病院が得た収入は医療機器の購入など、診療環境を高めるほうへ使うべきだと思う。

 

日本でも欧米並みのAROが育ってほしいと思っている。そのためには、優れた臨床研究を企画し、場合によってはそういった研究を受託し、ニューイングランドへ論文出版できる実力をつけることだろう。ファンディングは、国であっても企業であってもかまわないだろう。われわれ研究者はクオリティの高い仕事を、それぞれが実践することだけだと思う。そのためには、AROで働く各研究者が力を付けねばならない。日本の今あるAROで、欧米のHarvard, Duke, Oxford並みの業績を上げているところがあるだろうか。誰もがNoと答えるだろう。なぜだめなのか。インフラもあるだろうけど、優れた臨床研究ではないこと、各研究者のクオリティがまだ低いこと、論文執筆の技術が低いこと、中身の問題のほうが多大ではないかと思う。ではどうすればよいか。若手の人は欧米の大学AROへ飛び込み、数年間研修し、クオリティを高めてほしい。海外の研究者とネットワークを築き、海外プロジェクトへ参画しつつ、それに負けないような大型プロジェクトを日本でも始め、ニューイングランドへ論文出版することだろう。ビジネスにおける海外進出は揺らぎないものとなっているが、リサーチにおいてはまだまだと感じている。海外留学が減っているのはとりわけ心配なことだ。海外AROとの研究者交流をもっと進め、欧米と伍するAROに近い将来育っていくことを祈念する。


 ひとりごとNO.53. 大学の「講座」は「学科」と呼ぶべきでないか?(2018-4-24


国内の先生で「〇〇講座」というのを英語で、”Department of 〇〇”としている例をよく見かける。日本語では講座と呼んでいるが、英語では学科と呼んでいる。これはある意味正しい。Departmentというのは学科であり、その上のSchoolは学部である。医学部医学科というのはそもそもおかしい。医学部も医学科も同じである。小児科学講座をDepartment of Pediatricsと訳すのは正しいだろう。小児科学は講座などと呼ばずに、学科と呼んだらよいと思う。しかし、日本の講座というのは教授1、准教授1、講師・助教2の4名を基本とする単位であり、それをDepartment学科と呼ぶには恐れ多いのかもしれない。

 

海外の医学部を見ると、学科としてMedicine, Surgery, Neurology, Pediatric, Pharmacology, Pathologyなどある。Medicineは内科、Surgeryは外科である。米国では、それぞれの学科の中には教授は複数いる。日本の国立大学並みの大学だと、学科内の教授は数十人はいることが多い。内科など大きな学科では、さらにDivisionsとして、循環器・内分泌・消化器・血液/腫瘍・腎高血圧・呼吸器・アレルギー・総合内科などを設けることがある。下手すると、内科というDepartment of Medicineなどでは100人近く教授がいるかもしれない。


医学部の中に医学科しかない日本の体制は異常といえる。学科が医学科1つしかないなら、学部にすることもないだろう。学科が複数になってきたら、それらを束ねるのが学部である。そろそろ医学部医学科ではなく、医学部内科や医学部小児科という学科構成にすべきではなかろうか。看護学でみると、米国ではほとんどすべての大学で看護学部になっている。その中に、小児看護学科や公衆看護学科などが存在する。日本の看護学をみると、看護学部が最近増えてきた。そこでは、米国のような学科が存在している。これは大変よいことだと思う。医学部看護学科小児看護講座を訳すのは大変だ。小児看護講座は学科扱いにすると、学部はどうなるのだろう。School of Nursing, Faculty of Medicineなど、面倒な訳にするのだろうか。やはり、医学部看護学科というのが変なのであり、国際標準の看護学部に早くすべきだろう。


ついでに言うと、第一内科とか、病理学1など、番号制も奇妙に思われる。名称が中身を表さないのは、外向けには不親切である。隠語が好きな日本人好みの名称かもしれないが、国際的にはDepartment of First Medicineというのはいかにもおかしい。名は実を表す制度に早く変わってもらいたい。


米国の学科(Department)には、教授が一人ということはまずない。日本は仮に名称を講座ではなく学科に変えても、そこに所属する教授が一人というのは寂しい限りだ。もっと大学教員、特に教授が増えてこないと、科学技術の分野で勝てるわけがない。国際標準の学科という名称に変えることにより、学科に見合う複数教授の体制を、政府に求めていくべきだろう。研究者の総数もそうだろうが、教授の総数も日本は少ない。どなたか、国際比較をぜひしていただきたい。

 

最後に、私に関係する生物統計学(あるいはバイオ統計学)について考えてみよう。米国では、公衆衛生学部(School of Public Health)の中に生物統計学科(Department of Biostatistics)がある。もちろん、生物統計学科の中には複数の教授がいる。大きな大学では30名以上の教授陣がいる。日本の大学の生物統計講座(学科相当だが)は、どこも教授は一人だけである。例外は久留米大学くらいだろう。バイオ統計センターという名称ではあるが、Department of Biostatisticsに相当すると思われる。そこには教授は3名いる。米国では最小規模の生物統計学科と言わざるを得ないが、日本では最大規模になる。学科と呼称するからには、そこに教授が複数いないと国際的には極めて変な感じがする。


ひとりごとNO.52. 国会公務員は利害関係者と会食するのは禁止ではなかったか?(2018-4-19

 

昨日、セクハラしたとされていた財務次官が辞任した。財務次官という官僚のトップがセクハラとは落ちたものだと思ったが、それ以上にびっくりしたことがある。利害関係者である新聞記者(いわゆるバンキシャ)と、二人きりで何度も会食していたことだ。国家公務員と利害関係者との会食は、もう10年以上前から禁止されていたはずだ。当事者だったからよく覚えているし、割り勘なら関係ないじゃないかと疑問視していた。友人同士の飲み会、少人数の同窓会まで出られなくなるからだ。それはともかく、財務省はいまだにそんなことが公然と行われていることにびっくりした。それだけでも道義的責任を取り、もっと早期に辞任すべきだっただろうと思う。

 

さらに、利害関係はそれほどなくても、男女二人での会食は避けるようにと指導されていた。三人以上で出席することとされていた。それも大人なんだから変だなと疑問視していた。財務次官は二人きりで会食し、とても恥ずかしい会話をしていたことになる。大人らしからぬ、恥ずべき事実だ(報道が正しければ)。財務次官側からバンキシャを誘っていなくても(つまりバンキシャのほうから誘ったとしても)、そのような会食へ出かけてしまうこと、そして会食の場で大人らしからぬ卑劣な会話をすること、これは許しがたいことだと思う。しかも、「セクハラを受けたというなら名乗り出ろ」という威喝をして、どうせ出てくることはないだろうから逃げ切れると考えたのなら、下の下だ。それにしても、こんな卑劣な人間が官僚のトップに上り詰める社会は、いったいどうなってるんだろう。


ひとりごとNO.51. 統計家が米国心臓学会特別会員に(2018-4-10


 FAHAに統計専門家 

米国心臓学会、略してAHAは世界最大の医学会の一つだろう。AHAには特別会員という制度があり、それはフェロー(FAHA)と呼ばれる。我が国の循環器内科医でも、少なからずFAHAの資格を得ている方はいる。そこでびっくりしたことだが、私のような医師ではない統計家でFAHAになっている方がいたことである。添付PDFに示したように、著名な統計家―すべて米国人ではあるが―がFAHAになっている。ジョンホプキンス大学のScott Zeger氏、Framingham study(循環器疫学研究)で貢献したRalph B DAgostino SR氏、LRC study(スタチンによる心臓病の一次予防RCT)で貢献したO Dale Williams氏など、心臓病学の発展に対する寄与が大きな方々がなっている。日本では統計家は臨床学会の教育講演に呼ばれる機会は多いが、そうした特別会員になる例はまずないかと思われる。 


ひとりごとNO.50. 有意水準を巡って意見沸騰(2018-4-3

 

米国医師会雑誌、いわゆるJAMA322日号で、P値の有意水準は0.005未満が望ましいという意見が発表された。メタアナリシスで有名であり、ギリシャからスタンフォードへ抜擢されたJohn Ioannidis教授が書いた記事である。彼は日本にも十数年前かに来日されたことがある。刺身が一向にだめだったと記憶している。

 

さて、本題に戻そう。確かに、P<0.05ではそれほど珍しいことではなく、意味のない事象を誤って取り上げてしまう可能性があり、P<0.005などもっと厳しい水準にしたことがいいことは言うまでもない。しかし、そもそも閾値が必要であろうか。*マークを付ける習慣があるが、以前から星取り表といって、統計家の中ではあまり評判はよくなかった。

 

この記事に対して、ここ2週間にわたって、米国統計学会(ASA)の中で論争が勃発した。私は、D.R.CoxS.Greenlandが言っているように、有意水準の閾値5%というのは削除し、シンプルにP=…と書くだけでよいと思っている。統計学的有意というと伝家の宝刀のごとく思われていたが、P値はご存知のようにサンプルサイズに大きく依存する。「有意」というのはP値だけではなく、本来、臨床的にも考慮すべきものである。


 ひとりごとNO.49. 家族外交、同属経営、同胞教授(2018-3-19


韓国でのオリンピック、開会式は北朝鮮からは代表の妹テジョンが出席、閉会式は米国から負けじと大統領の娘イバンカが出席した。家族外交の象徴的瞬間だった。国家を私物化しているように見える。わが国に目を向けると、長期政権の安倍内閣はお友達内閣と言われてきた。友達政権も似たり寄ったりだろう。

 

企業に目を向けると、今でも同属経営の会社が多いことはご存知のとおり。これは私企業なのでよいだろうが、政治外交は国民のものなので、ちょっと首を傾げたくなる。というより怒りがこみ上げる。大学教授はどうだろうか。出身校で教授になる事例が多い。一度は外に出ればよいが、ずっと同じ大学にいる教官が多いような気がする。もっと外様大名を入れ、交流試合をすべきだろう。中でじっとしているほうが楽だろうが、あえて外へ出て行ってもらいたい。


家族、友達、同窓、どれもその中にいるほうが楽に違いない。ぬるま湯に漬かっているほうが楽だろう。そうではなく、熱湯かもしれないが、もっと外へ出てもらいたい。そうすれば、もっと変わった血が組織へ入ってくる。結婚だって、親戚同士で結婚すると障害児が生まれることがある。違う人種同士で結婚すると、混血のエキゾチックな美人が生まれる。人類の発展にとって、混血のほうがよいことは明らかなのだ。いろいろ交じり合うことで、健全な成長をもたらすのだと思う。政権、外交、経営、人事、もっといろんな血を入れてもらいたい。個人レベルでは、村に閉じこもるのではなく、積極的に外へ出てもらいたい。最近の学生は閉じこもり志向が多いように思う。「どうにかな〜るさ」と、安易に行動する若者がもっと出てきてほしい。国内なんて言わず、外国へ飛びたってほしい。


ひとりごとNO.48. 森友問題―見えすえた劇に不満が爆発する(2018-3-15 PM

 

安倍内閣は、改ざんという犯罪を、佐川氏の個人的判断で実行したにしようとしている。とんでもないことだと思う。国家権力の乱用としか思えない。官僚は今こそ立ち上がり、政府に向かって正義を貫いてもらいたい。本当のことを正々堂々語ってほしい。

 

佐川氏が自身で改ざんを指示し、フェイクトークする必要がどうしてあるのか? これは犯罪行為である。自ら犯罪行為を実行するには、それなりの動機がないといけない。安倍夫人の名前や鴻池氏の名前を消そうと、どうして犯罪を犯してまで、佐川氏がしなくてはいけないのか? 動機が見当たらない。

 

内閣府のほうから話があって、何とか国会(昨年春)を乗り越えるために改ざんを指示され、佐川氏はやむなく動いたというほうが自然である。今では内閣主導で「官僚は僕となり働く」、こういう構図が常識になっているからだ。官僚主導で犯罪を犯すわけがない。

 

もう一つ、その理由がある。佐川氏は犯罪行為までして内閣府に尽くして、昨年春の国会を何とか乗り越えた。うまく乗り越えたので、内閣府のほうではご褒美として国税庁長官にしてあげた。これは普通に考えられることだ。

 

さらに、森友問題がもう一度再燃してきたら、ご褒美の解消。国税庁長官の解任、そして犯罪者まで落としいれようとしている。国家権力の怖さを改めて痛感する。手段は問わない暴力団と何ら変わらない。

 

もう一つ、理財局の森友問題で担当していた職員の自殺がある。「常識が壊された」と言って亡くなったようだ。常識とは何か。それは、「公文書の決済後の改ざんはあってはならぬ」という不文律だと思う。上から言われたからといって、そこまでやったらもうおしまい。寅さんの「それを言っちゃおしまいよ」だ。常識の常識が覆され、犯罪にまで手を染めさせられた理財局職員は、頭がおかしくなって当然。精神的苦痛のため自殺したと思われる。もしこのとおりだとしたら、国家がこの職員を殺したことになる。これこそ非常に由々しきことだろう。

 

一官僚が犯罪まで犯して政府を守ったとしたら「僕」に徹してはいるが、一線を越えているときには声を上げるべきだろう。今からでも遅くないから、官僚は本当のことを語ってほしい。


ひとりごとNO.47. ベースアップ3%で月額1,500円上がるって正しいの?(2018-3-15

 

ベースアップ、つまりベアがかれこれ20年以上ぶりに、この時期の話題になっている。ベア3%以上だと補助金を出すと政府が言うから、何とか3%以上のベアを各社目指しているようだ。火曜日のニュースを聞いていたら、月額1,500円のベアで3%目標を達成したと言っていた。3%で1,500円ということは、1,500÷0.03=50,000円だ。月給5万円? 何かおかしくないだろうか? 

今日は久しぶりに短いブログでした。昨今気になるニュースが多くて、ペンディングのブログは19日(月)に載せることにします。訳は言いませんが、その後はしばらくお休みです。


ひとりごとNO.46. 官僚は決済文書など書き換えたりしない!(2018-3-13

 

森友問題が進展した。財務省が決済文書の書き換えを認めた。しかも、国会で討議中の昨年2月~3月ころに書き換えられたようである。そうすると、国会での討議をかわすために書き換えたとしか思えない。文書を見ると名前の出ている人がいる。

 

その頃テレビで、「金を積んできた籠池氏に、けしからんと言ってつき返した」とテレビで発言していた鴻池氏。文書中では、近畿財務局へ陳情に行った人物として名前が挙がっていた。これは怪しい。鴻池氏が「わしの名前はちゃんと消しとけ」と言った可能性がある。

 

もう一人、最大の討議になっていたのは安倍夫人である。籠池氏の学校を応援していた事実は周知のとおりだ。応援するのはいいけど、地位を利用して行政をゆがめてはいけない。文書の中には安倍夫人も出ていることは、財務省としては当然知っていたはずだ。国会の討議で安倍夫人が槍玉に上がり、それを最初に懸念したのは佐川元理財局長だったかもしれない。そして、財務大臣、内閣府、安倍首相へと伝えたことだろう。官僚が独断で文書を変えることなんてありえない。安倍首相自身か、内閣府のどなたかが、佐川氏に「それはまずいから消しといてくれ」と指示したに違いない。文書として言った事実はなくて当然だ。こういう微妙なときは、われわれでも文書でなく、口頭あるいは最悪電話でする。証拠が残らないからだ。証拠がないから、最後は罪の擦り合いになるかもしれない。今度も政権が崩れないように不時着させると思われるが、正直に「私が指示した」という人が出てきてほしいものだ。

 

なお、自殺された官僚だが、私が思うには決済文書の改ざんを命ぜられ、それを実行した当事者ではないかと思う。森友との交渉にも直接当たっていたようなので、内容とは違う決済文書を捏造させられ、その呵責感のために心身ともにおかしくなったと想像する。加計問題も同じように思う。行政がゆがめられたと元文部次官が言っていた。総理が内閣府を通じて圧力をかけ、官僚は不正だと気づいているのに止められない。そのむなしさが痛く分かる気がする。

 

官僚は自分自身で決済文書など書き換えたりしない。政治家が関与していることは誰が見ても否めない。


ひとりごとNO.45. 森友文書―当時書き換えは隠蔽体質ではないか(2018-3-12

 

週末の忌々しき報道のため、準備していたものを延期し、急遽これを書かせていただく。

 

国交省への文書では「特殊性」などの文言が入っていたが、財務省内の文書では削除されていた。
どちらも20152016年頃の文書である。2つの可能性を想像してみた。1)当初は同じだったものだが、昨今の森本問題が指摘されてから、財務省内のほうだけは書き直して捺印まで押しなおさせた。これは明らかな改ざんであり、犯罪に該当しよう。2)国交省への文書では問題ないので詳しく書いたが、財務省内はそれではまずい(会計検査院等から問題を指摘される)とどなたが指摘し、財務省内で書き直したものを後日(国交省宛の文書作成後)作成した。

 

日付を信じれば後者のほうが正しいと見るだろう。つまり、その当時2通りの文書を作っていた。その前提で、自民党のある議員は今回慌てて書き直した文書を作成したわけではない、つまり1)ではないので問題ないような発言をしていた。しかし、そうではないと思う。どうして財務省内と国交省宛で「当時」文書内容を変える必要があったのか、それは明らかに意図的である。しかも、財務省内のほうが大雑把な経緯説明であり、国交省宛のほうが詳細というのは不自然である。会計検査院からチェックを受けるのは財務省の文書のほうだから、あえて別の文書を財務省内で用意したと考えるほうが自然ではないだろうか。

 

いずれにせよ、1)なら犯罪問題、2)でも悪質なことだと思った。内部で詳細を隠してしまう体質、つまり臭いものにふたをする体質が伺われるからだ。すなわち、都合悪いものを組織ぐるみで隠す、隠蔽体質そのものではないか。


ひとりごとNO.44. 米国でデータサイエンティストは一番人気の職種(2018-3-6

 

米国の「Glassdoor」という人材派遣サイトで、データサイエンティストが一番人気の職種にあがっていた。日本でもデータサイエンティストは人気が出ていて、特に理工学部へ入学を希望する生徒には、「データサイエンティストになれますか?」と聞く人もいるらしい。

 

念のため「Glassdoor」のジョブランキングのベストテンを見ると、1: Data scientist, 2: DevOps(開発運用) engineer, 3: Marketing manager, 4: Occupational therapist, 5: HR(人事) manager,
6: Electrical engineer, 7: Strategy manager, 8: Mobile developer, 9: Product manager,
10: Manufacturing engineer
となっていた。ちょっとエンジニア系に偏っていると感じた。なお、Software engineer(いわゆるSE)は21位、Data analyst38位に入っていた。人気が高いと思われる医療系は4位の作業療法士だけであり、これは少し信じがたいと思った。

 

そこで定評ある「Forbes」をみると、「U.S.News&World Report Best Jobs of 2018」にリンクされていた。「U.S.News&World Report」は、大学ランキングなどでも定評ある雑誌である。「Time」や「Newsweek」と並んで、よく定期購読されている雑誌でもある。私もアメリカに住んでいるとき定期購読していた。それをみると、1: Software developer, 2: Dentist, 3: Physician assistant, 4: Nurse practitioner, 5: Orthodontist, 6: Statistician, 7: Pediatrician, 8: Obstetrian/Gynecologist; Oral/Maxillofacial surgeon; Physicianだった。予想通り医師や看護師が多く入っているが、第6位に統計家が入っているのにはびっくりした。さらに、第1位はデータサイエンティスト如きと思われる。このように見てくると、人気ある職種は医療系とデータサイエンティストと言っても過言ではないだろう。ところで、統計家とデータサイエンティストの違いはいまいち明確になっていないが、データサイエンティストのほうは少しコンピュータサイエンス寄りではないかと思う。

 

ところで職種というのは「Job」の訳である。日本ではあまり職種は問わないように思う。業種(金融業とか製造業とか)、会社名、あるいは所属部署(人事とか営業とか)は聞くかもしれないが、あなたの職種というのはなじみがない。職種がなじむのは医療職くらいだろう。「あなたの職は何ですか?」、あるいは「何をされていますか?」と聞かれて、医療職なら答えやすいだろうが、サラリーマンはなかなか答えにくいだろう。同じことをずっとやっている人は多くないからだ。同じことをずっとやる人はスペシャリストなどと呼ばれ、会社の中枢へ上り詰めることが少ない。でもこれは日本独特であり、欧米では統計職をずっと続け、最後は副社長のポストまである。業種によっては社長もありうる。人事労務管理でもその畑で登りつめる人が多い。日本はあまり一つのことに執着せず、多方面を経験するゼネラリストになるのが目標になっているような気がする。

 

高度プロフェッショナル制度が盛り上がっているが、職種を明確に言える人はほんの一握りしかいないように思う。私自身はどう答えるだろうかと考えた。大学教官は職ではない。業種になるだろう。それではなんだろうか。統計家だ。でも自己紹介するとき、「私は富山大学医学部の折笠です」とは言うだろうが、「私は統計家です」と言う人はいないだろう。仮に統計家などと言っても、それ何ですかと言われそうな気がする。


ひとりごとNO.43. オリンピック級の選手はどうして留学するのか(2018-2-19


いまオリンピックが韓国で行われているが、羽生選手に続いて小平選手が金メダルを取得した。大変喜ばしいことだ。羽生選手のコーチは外国人のようだった。また、小平選手はスピードスケートの本場であるオランダで修行したそうだ。フィギュアスケートだとカナダで修行が多そうだ。つまり、一流選手はほとんどが海外留学しているように思う。そういえば、プロサッカーの監督も外国人が非常に多い。野球でこそ日本人監督だが、一流を目指す人はメジャーに出て行く。日本はスポーツ後進国なのだろうか。スポーツだけでなく、私の専門のバイオ統計学でもアメリカがメッカである。アメリカで教育を受けたほうがよさそうだ。もちろん、私のようにアメリカで教育を受けても一流にならない人は数多くいる。
でも、アメリカで教育を受けなかった人で一流になった人はほとんどいないだろう。iPS研究でノーベル賞を受賞した山中博士にしても、研究生活の基礎(トレーニング)はアメリカで行ったと聞いている。


ではどうして、日本でのトレーニングで一流になれないのだろうか。それはトレーニングプログラムが貧弱なのだろうと思う。私の専門領域でも、アメリカ大学の学習過程は日本のどこの大学にも及ばない。教える先生も素晴らしいし、カリキュラムも優れている。もっと、トレーニングあるいは教育を充実させないと、みな一流を狙う人は海外留学することだろう。元一流だった選手はよくTVのコメンテータとして登場するが、そういう人が選手のトレーニングに特化していかないものだろうか。そういう元一流選手に、もっとコーチなどで活躍してもらいたい。中には選手としてはすごいが、コーチとしてはいまいちという人もいるだろう。研究領域でもそれはある。しかし、全部が全部いまいちということはない。中には、一流選手であり、一流コーチになる人がいるはずだ。トレーニングのノウハウを持っているのは、海外留学を経て一流になった元選手のはずだ。そのノウハウを普及伝達しなかったら、ずっと海外留学を続けていくしかない。 


日本人はノウハウを考え出すのは弱くても、それを普及するのは上手だったと思う。品質管理の手法もアメリカから導入されたが、今では日本の専売特許になっている。今こそ、いろんな領域で「教育」へさらなる力を注ぐべきではなかろうか。


ひとりごとNO.42. ICH E9(R1)ガイドライン‐3つの用語を考える(2018-2-15

 

製薬業界向けの統計ガイドラインとして、ICH E9Statistical Principles for Clinical Trials―臨床試験のための統計的原則)ガイドラインは1998年に完成した(ステップ5―稼働中)。その補遺であるガイドライン、ICH E9(R1)ガイドライン(Addendum to Statistical Principles for Clinical Trials: Estimands and Sensitivity Analysis in Clinical Trials)は現在ステップ3、パブコメ中である。

まず、”(R1)”とは何だろうか。どこにも見当たらない。私の想像するに、”Addendum”、つまり「補遺」がヒントだと思う。”Addendum” 「補遺」は、文書等の追加・更新(”Addition or Update”)と定義され
る。 つまり、”Revision”「改訂」の”R”だろうと思った。つまり、”R1”というのは「改訂1版」ではなかろうか。

第一は、”Estimand”という用語である。10万語を配するジーニアス英和辞典でも載っていない。さすがに、1,000万語を配するWeblioには載っていた。訳語として、「推定値」と書かれている。
それじゃ、”Estimate”と同じじゃないか。でも、ちょっと違う。もうちょっと広い概念のように思う。著名な統計学者であるMosteller博士とTukey博士が、この用語を使用している(Frederick Mosteller and John W. Tukey (1968): Data analysis-including statistics. In: Handbook of Social Psychology: Research Methods, Page 106)。そこでは、”Something to be estimated”と説明している (We speak of the estimators target as an estimand [as something to be estimated] rather than just as a parameter.)。推定量の標的と書かれているので、推定値ではなく、何を推定しようとしているか、つまり「推定目標」ではなかろうか。ガイドライン中には、”What is to be estimated”(推定されるもの)と定義している。数理統計学のある本には、”Estimand”という用語が使われているとも聞いた。特別新しい造語ではなさそうだ。

続きだが、”-and”という接尾辞はどのような意味だろうか。”Compil-and”という単語がある。”and”とは接続詞が定番だが、接尾辞、つまり”-and”としての使い方がある。接尾辞の意味は、”-ing”(動詞の進行形)らしい。したがって、”Compil-and”は”Compiling”(あるいは”Computing”)であり、コンパイラー(コンピュータ言語)のことかと思う。同様に、”Estimand”は”Estimating”であり、推定しようとしているものなのだろう。”-and”は”-ed”、”-ee”、”-end”の意味もあり、”Estimat-ed”、 ”Estimat-ee”、
Estimat-end“、”Estimat-and”は同義になる。このことから、 本来は ”Estim-and”ではなく、
Estimat-and”が正当なのだろうが、何らかの理由で省略され、”Estima(ta)nd”となったのかもしれない。

 

第二は、”Sensitivity analysis”という用語である。疫学の検診・診断用語としてのSensitivityは感度あるいは鋭敏度と訳され、病者を検査陽性と正しく診断できる確率のことである。しかし、統計学で言っている”Sensitivity”はそうした疫学の専門用語ではなく、いわゆる通常用語の意味だと思う。「感じやすさ」あるいは影響度という意味合いなのだろう。したがって、違反例や外れ値などが結論にどう影響するかを分析することが”Sensitivity analysis”、すなわち「感度分析」だと思う。

 

第三は、”interecurrent event”という用語である。和訳では「中間事象」と訳されている。これまたジーニアス英和辞典に載っていない。Weblioでは、「介入性の」や「併発する」などと書かれている。語源で考えてみよう。まず、”inter-“とは”inter-national”から想像されるように、「間」という意味がある。
また、”inter-group”(”intra-group”に比し)から想像されるのは、「外」という意味である。
では、”current”は何かというと「現在」である。「現在の間」、「現在の外」、では訳が分からない。しかし、”currency”から想像されるように、”current”には「流れる」という意味もある。それだと「流れの間」となり、「流れ」というのは臨床試験の試験期間と捉えることができる。試験期間中に起こる事象のことを言うのだろう。「中間事象」という訳は、的を得ているように思った。少なくとも、「介入事象」や「併発事象」よりは良いだろう。「流れ」を想定内のことと思えば、流れの外だから「想定外の事象」と言ってもよいかもしれない。

 

今回は大変長くなってしまった。2月9日の大分統計談話会でのディスカッションで思い立ったことをまとめてみた。


ひとりごとNO.41. 受動喫煙に関する法律改正案は妥当だろうか (2018-1-31)


2年後の東京オリンピックを目指して、受動喫煙を規制するような法律改正が議論になっている。乗り物はほぼ100%禁煙になったが、飲食店ではまだまだのようである。私がよく行くような小さな居酒屋では、ほぼ100%喫煙可能だろう。私自身吸わないので、居酒屋も禁煙になってほしいと願う。煙が来ると早めに退散することもある。

今回妥協案として、小規模の飲食店(具体的には150m2未満の店)では、禁煙の対象外とする案が挙がっている。本末転倒ではないだろうか。小規模な店ほど、喫煙することにより煙が蔓延する。煙たさを痛感する。健康増進の観点からは、小規模店ほど禁煙化するのが筋ではないだろうか。

愛煙家がそういった小規模店によく通っているからだ、と言うかもしれない。そうかもしれないが、それは店の都合だと言えよう。うちの常連さんはほとんど愛煙家だから、禁煙化すれば来なくなるという理屈だ。店がつぶれてしまう。健康増進を考えるだけではうまく行かず、小さな店の経営も考えないといけないのだろう。

私自身は全面禁煙化を望むところだが、お店の自由という議論もある。煙がいやなら行かなければよい。でも、そういった小さな居酒屋は、大きなチェーン店などと違って、味も良し、雰囲気も良しなのだ。だから、多少タバコを吸っている人がいても、私は通う。個人の自由をそこまで束縛しなくてもいいという議論もあるだろう。禁煙家は来店しなくなり、愛煙家も減ってくれば、当然そういった居酒屋も禁煙にするだろう。

アメリカなどでは、飲食店で喫煙している人はほとんどいないように思う。レッドネッカーが行くような店はまだ例外かもしれないが、バーなどでもタバコを吸っている人はあまり見かけない。そういった外国人が日本へ来て、私が行くようなコの字型の小さな居酒屋など行かないかもしれない。小さなスナックへも行かないかもしれない。それなら結構だけど、もし行った外国人は敬遠し、悪い印象を持つだろう。

皆が行く公共性の高い場所でタバコ禁止は当然だろうが、小さな居酒屋はそれほど公共性が高い場所とも思えない。そこも禁煙にしてもらいたいと個人的には思うが、法律で縛るのはどうなのかなと客観的には感じる。


ひとりごとNO.40. 所得税改革のからくり(2017-12-12

 所得税改革

給与所得税控除額220万円の上限を190万円に引き下げ、高額所得者有利の仕組みを変えると言っている。それはそのとおりだが、高額所得者とされているのは、年収800万円以上の人たちである。確かに平均年収は420万円ほどなのに、年収800万円というのは高い。年収が2倍になったからといって、生活に必要な経費が2倍になるとは限らない。年収1,000万円以上の人はおよそ5%と言われている。現時点では850万円がカット点になりそうだが、850万円以上の人は10%くらいだろうか。控除額が30万円減るということは、所得税20%だとすると、手取りで24万円くらい減ることになる。月2万円の減だから、年収1000万円前後の中上流層にとってはかなりきつい。

 

私が問題視したいのは、もう一方の基礎控除の引き上げについてである。載せたグラフの下部分である。年収2400万円まで、基礎控除を38万円から48万円へ引き上げることになっている。年収2400万円を超えると段階的に引き下げる。なぜ、2400万円まで引き上げてあげる必要があるのだろうか。それは国会議員の給与水準ぎりぎりであることに疑念を隠せない。国会議員が作っている法案だから、自分を守っている法案じゃないかと思う。

 

年収800万円以下の人にとっては喜ばしい改革だろう。しかし、年収800万円〜1000万円辺りの人は一番厳しい結果に見える。逆に、20002400万円辺りが一番喜ばしい結果に見える。つまり、中上流層をいじめた格好である。本来なら、2000万円以上の人では基礎控除は不要ではなかろうか。2000万円以上の高額所得者は1%弱と言われている。上位1%の方々には、基礎控除は遠慮していただいてもよいのではなかろうか。そうすれば国会議員の基礎控除はゼロになり、身を切る改革をしていると実感させてくれるのだが。


 ひとりごとNO.39. エレクトリックvsエレクトロニック(2017-11-16

 

カタカナで書くと大変よく似ているが、英語の発音はかなり違って聞こえる。エレクトリックでは「レ」に強いアクセントがあるが、エレクトロニックでは「レ」に弱いアクセントがあるものの、「ロ」に強いアクセントがある。強いアクセントは「ロ」のほうなので、聞いた感じはかなり違う。日本語の訳語は、エレクトリックは「電気」であり、エレクトロニックは「電子」である。これまた大変紛らわしい。その違いはよく分からない。発電、送配電は電気であり、半導体やパソコンなどは電子らしい。言ってみれば、過去は電気が盛んであり、現代は電子の時代だろうか。大学にも電気工学科というのが過去には多かったが、そのうち電子工学科が増えてきたように思う。NECという会社も、過去はNippon Electric Companyと英訳されていたようである。それじゃ今Electricは古いかというと、三菱電機は今でもMitsubishi electricと英訳されている。

 

なぜそんなこと考えたかというと、私の周辺では、EMRElectronic Medical Records)やEHRElectronic Health Records)がよく言われるようになった。EMRのほうは電子カルテと呼ばれるが、「電子」がちゃんと使われている。電気は配線をイメージするが、電子は線がないイメージだろうか。紙のカルテからパソコンに線でつながっているイメージは電気なのだろうが、そんなことはありえない。だから電子なのだろう。この言葉を英語で話そうとするときに、Electricと間違えそうになった。そこで気になったわけである。

 

昔、エレキというのが流行った。これはエレクトリック・ギターであり、電気ギターである。電子ギターではない。アンプまで線でつながっているからだろう。これが無線になると、エレクトロニック・ギターになるのだろうか。そんなギター見たことないけど。でも、IOTInternet Of Things)の時代になると、ギターとアンプがインターネットでつながることだろう。そしたら電子ギターと言い換えるのかもしれない。


 ひとりごとNO.38. 国会審議は野党がすべきものではないか(2017-11-13

 

政治不信のことを前回書いたが、ひとつ言い忘れていた。

 

安倍自民党が圧勝したためだろうか、国会での質問時間を自民党優先に変えようとしている。今までは、与党2:野党8(あるいは与党3:野党7)くらいだったようだ。今度はまったく逆転。与党7:野党3という案である。

 

自民党・公明党という与党は党内で揉んで、よくディスカッションし、国会へ与党案として提案する。その過程で、与党員は執行部に対していろいろ意見できるはずだ。事前に意見できないとすれば、それはそれで問題だ。それに比して、野党は国会審議まで質問する機会はない。

 

私に言わせれば、国会審議は野党だけ質問すべきだと思う。過去の国会審議を見ていても、与党からの質問は確認するためのものが多く、その質問によって法案が修正されたという事例はほとんどない。公明党も与党になっているが、公明党は「少し違うだろ」と質問することもあるが、基本的には与党なので、最終的には与党案に賛成するのはみえみえだ。

 

こんな形式だけの質疑はやめにして、国民はもっと国民目線の質疑を国会審議に期待しているはずだ。与党の質問時間を増やしてほしい、と言った自民党議員の理由にもびっくりだ。もっとテレビで質問している、つまり仕事している姿を見たいと、地元で言われたからだという。本末転倒だろう。テレビで質問する姿を見せないと、仕事していないと思われるような人柄こそが問題ではないか。もっと、別のところで仕事する姿を有権者に見せることはいくらでもできる。パーフォーマンスに走ることなく、地道に仕事をしてもらいものだ。その真摯さは、国民からも歓迎されるに違いない。


 ひとりごとNO.37. 政治不信になってしまう(2017-11-8

 

先だっては安倍首相が急に国会を解散させ、衆議院選挙が行われた。しかし、投票率は50%少しであり、半分近くは棄権したことになる。戦後第2位の低率だった。これは何を意味しているのだろうか。国民はなぜ解散するのかが理解できない。この解散って、必要だっただろうか。どう考えても、安倍首相など自民党が、いま解散して選挙をすると勝てそうだから解散したとしか思えない。そうすれば、また4年間安泰が約束されるから。しかも、選挙後に閣僚は変えない。何も変わらないなら解散する必要ないのでは、と言いたくなる。

 

解散って、そんな利用の仕方をしていいものだろうか。解散によって生じる選挙のためにほぼ1,000億円のお金―それは国民の税金―が使われる。必要のない解散によって、税金を無駄遣いしているとしか思えない。これだけのお金があるなら、保育園や奨学金などに、一時的ではあるが回してもらいたいと国民は思うことだろう。国民目線からは考えられないようなことや議論ばかり、これでは国民の政治不信は高まって当然だ。こんな国民不在の政治から脱却しようという団体に出てきてもらいたい。政策以前の問題、公正感を疑いたくなる事態が多すぎる。


 ひとりごとNO.36. 衆議院選挙―4つの公約で勝利(2017-9-27

 

衆議院選挙に勝つには、私は4つの公約が必要だと思っている。

1)    消費税を凍結

2)    原発ゼロを実行

3)    北朝鮮―圧力ではなく対話を

4)    所得税を減税


安倍首相はリーマンショック級のことが起きない限り消費税を10%に上げるという。ということは、現状なら2年後は10%に必ず上がる。国民は決して潤っているわけではない。自民党も民進党も10%に上げると言っているが、それを凍結するとはっきり言ってほしいものだ。

 

原発は縮小とかいうあいまいな言い方ではなく、即ゼロを実行する。そうはっきり言ってほしいものだ。いま稼動しているのも速やかに停止する。電力不足が懸念されるかもしれないが、止まっていた期間それほど不自由はなかった。また、新しい電力源が進んできている。眉唾ではなく、きっぱりいうことが必要ではないだろうか。

 

北朝鮮に対して、安倍首相はトランプ大統領と呼応し、対話ではなく圧力だと主張する。それが平和をもたらすとは決して思えない。いままさに、圧力をかけたため危険な状況が増してきた。小泉元首相は北朝鮮へ赴き、対話をし、拉致された方々を戻した。対話をしない限り、拉致被害者は戻ってきようがない。圧力は失敗だ、対話に転換すると言えば、大方の日本人は平和主義なので同調することだろう。

 

最後は減税だ。法人は株価の上昇や業績向上で内部留保もたくさんあるので、所得税減税を公約してもらいたい。これは消費者にとって朗報である。学費無償化も良いが、それよりは減税のほうがもっと良い。戻ってきたお金で、自ら何とかすればよいからだ。国民全体にもっと幸福感を与えるのが減税だと思う。

 

この4つを断行するような政党が出てこないかなと思う。これなら大方の国民がこれらを公約にすれば飛びつくのではないか。一院制とか憲法改正などを公約に上げても、国民はよくわからない。まだ早いんじゃないのと思うことだろう。何しろ身近なことから解決してほしい、というのが本音ではないだろうか。


 ひとりごとNO.35.豊田議員のような人はそんなに珍しくはない(2017-9-26

 

いわゆる「きれる」と言われる人はよく見かける。自分自身もきれる方かなと思う。さて、境界性人格障害という病名がある。起伏が激しく、感情が極めて不安定であり、強いイライラ感を抑えきれなくなる人を言うようだ。人口の2%に見られ、若い女性に多いと言われている。人はだれでも頭にきて、汚い言葉で罵ることはある。しかし、境界性人格障害では感情のブレーキが効かず、罵り方も尋常ではない。些細なことでも癇癪を起こしたりする。豊田議員、まさにこれではないかと感じた。50人に1人いるわけだから、決して珍しくはない。ふつうに世の中にはいるようだ。

 

この境界性人格障害、原因には脳の遺伝と環境があるようだ。遺伝はご承知のとおりだが、環境には幼児期の虐待や母親との人間関係が言われている。母親が子供の欠点ばかり指摘するとか、親の言うとおりに育った優等生に多いようだ。過保護に育てることも子供にとってはストレスになり、この病気を発症するようだ。この点も豊田議員のケースと合っているような気がする。この病気になると本人の自己肯定感が弱くなり、自信も持てなくなる。社会で困ることになりそうだ。

 

では、この病気に対処するにはどうすればよいか。ものの本にも書かれているように、心理・行動療法しかないのだろう。それにより、多くは短期間で改善するとも言われているので、そんなに心配する必要もなさそうだ。30歳以上になるとほぼ解消するなど、時間が解決してくれることも知られている。それよりも、本人に振り回される家族・同僚のほうが心配なのかもしれない。


 ひとりごとNO.34.北朝鮮に圧力で日米一致は非常に危険(2017-9-21

 

昨晩の国連総会で安倍首相は次のように発言した。北朝鮮にこれまで対話してきたが、それでも核開発を続ける。これではだめであり、今は対話ではなく圧力だと。

 

まず感じたのは、これまで対話をしてきたというが、小泉首相以来、だれが対話してきたと言えるか? 私に言わせれば、対話などまったくしてこなかった。つまり、その発言は嘘だと思う。

 

人間というのは面して、対話しないと分かり合えない。条件云々は関係なく、まずは直接会えばいいじゃないか。条件を呑まないと会わんなど言っているから、相手もそれじゃ会わないと言う。当然だと思う。対話というのは、無条件に会って会話すること。結果が決まっていたら、会ってもしょうがない。合意結果を得るために、会って対話・交渉する。安倍首相は無条件で会おうと言えばいいじゃないだろうか。日米が圧力で一致すると、戦争になる危険が高まる。大変危険なことを日米の宰相が言っていて、ひどく情けない。

 

北朝鮮は国連決議に従いなさいと一方的に押し付けるのは、いじめに他ならない。みんなで決めたことだから、あなたは言う事聴きなさいと言われて、あなたはいい気がするだろうか。だれだって、そんなこと聞くもんか、と逆に反発を強めるだろう。こんなやり方で円満解決されるわけがない。もっと和気藹々、対話をすれば、武装など不要な世の中になるのでは。それこそが国際平和につながる。圧力では国際平和は生まれない。中東でもアフリカでも、そのことは歴史が実証してきたはずである。

 

米国と北朝鮮のやり取りを聞いていると、それは子供の喧嘩のようでもある。お前が悪い、否あんたが悪い、と言いやる。挑発の連続である。どこかで一方が折れないと治まらない。あるいは、だれかが仲裁しないと治まらない。前者は無理だろうから、後者、つまり第三者が仲介すること。それを日本国にしてもらいたい。日本は平和主義であり、唯一の被爆国。核開発を止めること以前に、米国と北朝鮮がエスカレートしないよう仲裁してもらいたい。仲良くなれば、相手が信じられれば、核開発だって止めてくれる。そのためにも対話が必要。昨晩の首相の演説を聞くと、日本まで喧嘩を助長しているかに見えた。


 ひとりごとNO.33. 安倍首相は正直言わないと支持率は回復しないだろう(2017-8-3

 

安倍首相の1/20まで加計学園が獣医学部申請をしていないことを知らなかったと言いながら、年に7回もゴルフや会食をしていた。これは誰でも不思議と思い、そういう安倍首相は信じられないと思っていることだろう。潔く、1/20前に知っていたと言うべきではないだろうか。だからといって、気心は決して入れていないという発言をしてもらいたい。私情を入れていないと思っているのなら、あまりつじつまあわせの急迫発言をするよりも、正直発言をしてもらいたい。いやすべきだろう。それにより贈収賄と追求されるかもしれないけど、そんな私情優遇していないことが判明すれば、時間はかかるが不起訴になるはずである。それくらい打って出てくれることを、国民は安倍首相に期待しているのだ。そのくらいの度胸・度量があってほしい。安倍首相が支持率を回復するためには、こうした正直発言をするしかないと私は思っている。


 ひとりごとNO.32. 寄付とは自分にためにするものではない!(2017-7-28

 

寄付というのは、自分や自分の所属する組織にするというのは本末転倒のように感じる。それは寄付というより、徴収のように思われる。いわゆるカンパである。こんなビルを建てるから、1人いくら以上寄付してもらいたい。職員1人いくらと一律にするようなら、まさに徴収制度になる。社員旅行をするから、毎月給与から天引きするのと大して変わらない。自分のためにお金を払うのだから、本来それは寄付ではなく、組織の活動そのものではないかと思う。

 

本来の寄付というのは、自分ではない団体に対してするものではないだろうか。母校へ寄付をするとか、成長してほしい大学へ寄付をするとか、地方都市へ寄付をするとか、関係する学会へ寄付をするとか、であろう。寄付は見返りを求めるものではなく、その活動を無心に支援するものである。あまり何に使ってくださいと要望するようなものでもない。しかしながら、こうした活動を支援したいので、そういう点でご活用くださいというのは許されよう。寄付する側にしても、こういう活動を進めるために寄付してくださいというように、具体的な趣旨が示されたほうが納得して寄付できるだろう。

 

それでは、寄付を募るために努力するのは誰だろうか。それはもちろん経営者だろう。平の職員ではないと思う。大学であれば、学長や理事・評議員だろう。学会であれば、学会長や理事・評議員だろう。職員など組織の成員が寄付を集める行為は考えられない。職員は仕事にまい進すべきであり、それを使命としている部署以外は寄付集めをするものではないと思う。経営者が寄付を集める努力をすべきなのだが、寄付を求める対象は組織内の人たちではなく、外部の人たちになるのは言うまでもない。それが渉外という、経営者の仕事の骨頂であると思っている。


 ひとりごとNO.31. 決定権者である総理大臣が業者から供与を受けていていいの?(2017-7-25)

 

加計学園に認可が決まる頃に、その決定権者である総理大臣と加計学園とが年に何回も(7回とも言われている)ゴルフや会食をしていたらしい。しかも、加計学園から何回かは接待を受けていたと自ら発言した。

 

どの職場でも大きな入札が行われるとき、業者から接待を受けるなど許されるはずがない。業者側にしてみれば、職場の決定権者に接触したがるのはよくわかる。わが社に落札してもらいたいからだ。民間会社・病院・公共機関でも、そのような業者との密接な関係を職場倫理規定で禁止している。たとえ、業者が友人であっても、割り勘であっても、利益供与が想定される場合は禁止だ。

 

今回の場合、決定権者は総理大臣であり、民間(加計学園)から決定権者へ供与がなされていたことになる。決定権者は自分では決めていないと言っても、公式的には認可を決めるのは総理大臣である。総理大臣が業者から接待を受けたなど、言語道断というのが国民感情ではないだろうか。一般市民がそのようなことになれば、贈収賄ということで罰を受けることだろう。総理大臣なら許されるのか。このように国民常識からずれているから困る。都議会選挙の開票直前にもフレンチレストランでディナー、ちょっと呆れるというのが国民感情ではないだろうか。議員さんなど政治家は、もっと公僕に近い人たちであってほしい。仕事が終わった後から議会を開けば、仕事で給与があるから無給でよい。私なら晩飯くらい出してもらえれば、ぜひ議員をやってみたいと思う。


 ひとりごとNO.30.加計学園ありきは確実だろう(2017-7-11

加計と聞くと、広島の加計町由来かと思ったが苗字のようだ。

 

それはともかく、岩盤規制を取っ払うのは悪いとはだれも言っていない。加計学園に決まったプロセスに疑念がもたれているのだ。元文部次官もそこを訴えているが、自民党はどうも的外れなことを言っているとしか思えない。

 

私が思うに、加計学園ありきは確実だろう。なぜか。新設が認められていないのにすでに建設が始まっていること、これが第一だ。来年4月開講なら建設は必死だろうが、認可がほぼ決まっていないのに、建設する企業があるだろうか。決まっているから建設を始めているに違いない。そもそも、8月の設置審で決まったら翌年4月開講せよ、という制度自体が至極おかしい。それまでにほぼ決定しないと無理なことだからである。

 

第二は、加計学園へ決めるプロセスを合理的にするため、条件を追加したことだ。落札させるために条件を追加するのは、世の中で常識的なこと(私自身は非常識と思っているが)。いくらでも合理的に条件を追加することは可能である。今回もそれを行った。合理的に見えるかもしれないが、関係者からしたら「やられたな」という感想だろう。しかも、「みえみえ」の条件追加なのがお粗末だ。

 

大学教員の募集でも、公募を行わないのが日本では多い。アメリカでは考えられない。不透明に人事も行われているのが日本的なのだ。これと同じように、何でも裏取引をやっているような不公平さが見えると、若者も消沈することだろう。日本では、結論ありきで、それを合理付けるというのがあまりにも多いようでとても気になる。


 ひとりごとNO.29.「もっと獣医学部を認可しましょう」とはどういうこと?(2017-6-27

 

週末に安倍首相は神戸で次のようなことを言った。「別に加計学園に固執していたわけじゃない。加計学園以外にも獣医学部を認めたらいいじゃないか。」加計学園へ肩入れの疑いをかけられ、そうじゃないことをこのような形で解決しようとするとは、子供の喧嘩とそう変わらない。開き直りとしか聞こえない。別の獣医学部も認可すれば問題はなかろう、と言わんばかり。獣医学部はそんなにいらないと言っているのに、また作ればいいというのは論外だ。

 

問題の本質は、加計学園に決まったのは内閣のご意向があったのではないか、という嫌疑である。その嫌疑を直接的には明らかにせず、他にも獣医学部を認可すればいいじゃないかというのは論外だと思う。逃げているとしか思えないのは私だけだろうか。

 

たとえば、入学試験で知り合いの生徒を優遇して合格にさせておきながら、その嫌疑がかけられたら、「そんなことを疑うならあなたの生徒も合格にしてあげるよ」という理屈と同じだ。それは魔逆の対応であって、そういう嫌疑がかけられたら、ふつうの人なら「知り合いの生徒の合格を取り消します」と宣言するはずだろう。Statesman−公正な政治家―なら、それが当然の対応だと思いたい。


 ひとりごとNO.28.「出会い系バーで貧困調査」は何が悪い?(2017-6-2)

 

問題に対して対策を立てるさいに、現場を見ずして語ることはできない。私は大学生のときに、指導教授から、「まず現場を見なさい」と言われた。実際に仕事をし始めて、それが正しいことを実感した。現場を見ずして仕事している人は、実態を体感していないため、本質を捉えていないかもしれない。

 

高木兼寛と森鴎外の論争のとき、高木兼寛は理論武装の森鴎外に対して、現場を重視した。高木が創立した慈恵医大に掲げられた「病気を診ずして病人を診よ」は有名だ。いわば、現場を見なさいと言っているのだと思う。

 

今回、文科省トップが「出会い系バーで貧困調査」をしたことが問題視されている。この問題の対策を文科省が立てるのであれば、その現場を見ることは基本中の基本であろう。トップは忙しいにも関わらず、そのような行動をとることはお手本を見せているように思う。そんな立場の人が行くところじゃないと批判すること自体、そういった職業の人を差別していることに他ならない。あなたの立場なら「たち食いそば屋やガード下の赤提灯へ行くべきでない」、と言う人も同じだ。職業差別は大嫌いであり、人間はすべて同じというのが私の信条である。

 

週刊誌を読むと、前次官は30回以上も出会い系バーへ通ったと書いてあった。もしこの記事が正しいとすると、ここまでするのはどうかと思う。問題対策のため、そこまでのめらなくてもよいように感じた。熱血すぎたのか、それとも単なる個人的趣味なのか。もし記事が本当なら、後者のほうが疑われてもしようがないと思う。


 ひとりごとNO.27 日本の端はどこ? (2017-4-26掲載)

日本の東西南北の端はどこだろうか。ウィキペディアによると、北は択捉島、南は沖の鳥島、東は南鳥島、そして西は与那国島と書かれている。小学生5年生の教科書にもそのように書かれている。私たちの年代なら、北端は宗谷岬、東端が納沙布岬と覚えたように思う。どうなっているのだろうか。しかも、択捉島はロシアの領土ではなかろうか。

 

ウィキペディアにどう書かれているかとみると、日本が領有権を主張している範囲の最北端として、日本の最北端は択捉島と書かれている。1855年、江戸時代にロシアと条約を結び、それ以来択捉島は日本の固有の領土らしい。しかし、第二次世界大戦で全面降伏したとき、ロシアが択捉島を占領してしまった。しかし条約など正式な占有ではないため、日本は今でも択捉島は日本の国土だと主張している。それを教科書にも反映しているのだろう。でも、私たちの時代の教科書では、最北端は択捉島ではなかったと思う。では、いつから教科書で択捉島と書かれるようになったのだろうか。

 

最北端とされる択捉島へ、ふつうは行くことはできない。日本人が行ける最北端は宗谷岬だろう。最南端の沖ノ鳥島へも、人間は行くことができない。行けるのは沖縄・八重山諸島の波照間島だろう。最東端の南鳥島へも人間は行けず、行けるは根室の先の納沙布岬だろう。最西端の与那国島だけは人間が行くことができる。私たちが行ける日本の端、北・南・東については制覇したが、最西端だけまだ行ったことがない。実は石垣島から西表島など八重島諸島を回ったとき、与那国島へもちょっと足を延ばしておけばよかった。でも、いつかまた最西端へ行ってみたい。


  ひとりごとNO.26 富山大学の受験生は北陸新幹線で非常に変わった(2017-4-5)

 

富山大学では関東の志願者が増えたというニュースが流れた。今年の入試も終わろうとしている312日のことだ。関東からの志願者の数字を見ると、2015年度は7152016年度は8472017年度(今年)は978だった。確かに、毎年およそ150人ずつ増えているので本当らしい。全体に占める割合で見ると、2015年度が9.1%2017年度が11.9%のようだ。2.8%だけ関東からの志願者が増えたわけだが、これは偶然なものではないと言えるだろうか? 統計学的に考えると、偶然で起こる可能性は0.01%未満であることが分かる。わずか2.8%の増加に過ぎないが、何の原因もなく、こんなに増加することはありえないという結果だ。ちなみに、志願者数はおよそ8千人であり、毎年そんなに変動はない。

 

偶然とは考えにくい関東からの志願者増だが、その理由はなんだろうか。ここからは想像の範囲になるが、北陸新幹線効果ではないだろうか。あるいは、志願者説明会を東京で開催したお陰、つまり広報効果かもしれない。上に示した数字だけでは真の理由は分からないが、どちらも影響していることだろう。

 

県外からも多くの志願者がいることは結構なことだが、その一方で弊害もある。医学部では医師を6年かけて養成するわけだが、医師になったら研修先を自由に選べる。関東出身の学生は、どうしても研修は関東でしたいと希望するようだ。せっかく富山大学を卒業しても、この地で仕事をしてもらえない。これは地域医療にも影響する大問題だ。そこで、地域枠という入試制度ができた。富山大学医学部では毎年15名以内としている。富山県内の高校を卒業した者で、ある程度(大学入試試験80%以上)の能力があることなどが前提である。そして、卒後の一定期間は富山県内で研修することも確約してもらう。さらに、富山大学では特別枠(10名まで)という制度もある。こちらは富山県出身者に限らないが、卒後は富山県内で研修することを確約してもらう。特別枠では、富山県から修学費(毎月10万円)が貸与される。厚労省が平成19年に「緊急医師確保政策」を設け、それが財源となっているようだ。地域枠は富山県内限定なので数倍の倍率だが、特別枠は全国から志願できてお金もいただけるため、15倍などと毎年非常に高い倍率になっている。


 ひとりごとNO.25富山市のコンパクトシティは本物か(2017-3-31)

 

富山市はコンパクトシティとして宣伝しているようだ。宣伝の効果あって、全国に浸透しているように感じている。しかし、本当にコンパクトシティに住んでいる市民はハッピーだろうか。私自身、コンパクトシティのど真ん中に住んでいるが、コンパクトシティの中で何事も済ませるという恩恵はあずかっていないように感じている。

 

確かにコンパクトシティ内をLRTが走っているし、コミュニティバスも走っているので、自家用車がなくても市内は動きやすい。それは車のない人にとっては恩恵かもしれない。しかし、車がなくても動きやすいなどというと、東京都内の町はすべてコンパクトシティになってしまう。電車やバスでほぼ不自由なく、どこでも行ける。富山市が特別だということは全然ない。

 

コンパクトシティでは車がなくても、生活のすべてが実現できるという。移動についてはさきほど述べた。買い物はどうだろうか。スーパーは少し遠くてもバスで行けるには違いないが、毎日の話、バスを使うのもどうだろうか。食事、外食は? 東京都内だと、歩いて外食もほぼ可能だろうし、交通機関を使ったらどこでも行ける。富山市はどうだろうか。歩いて行ける外食店はコンパクトシティ内にあるものの、魅力のない、つまり行きたいと思わない店が多すぎる。ラーメン屋(つくしなど)、うどん屋(丸亀製麺・糸庄など)、回転寿司(すし玉・すし食いねえなど)、コーヒーショップ(コメダ珈琲など)、バーガーショップ(モスなど)、賑わっている名店はどれも郊外にある。歩いては絶対無理だ。バスでもなかなか行きにくい場所が多い。どうしても車が必要となる。これでは、コンパクトシティ内で何でも適う、恩恵をあずかるとは言えないのではないか。

 

私自身、かれこれ10年ほどコンパクトシティ内に住んでいて、歩いてデパートを行けたり、図書館へ行けたりと便利に感じることもある。しかし、CPに優れた名店はほとんどコンパクトシティ内にはない。どうして、そうした名店は入ってきてくれないのだろうか。一つは、そういった名店は損益をよく考え、場所代が高いから入ってこないのかもしれない。場所代は高くても大賑わいなら何とかなるだろうが、大賑わいにならないと踏んでいるのだろう。しかし、コンパクトシティ内にある名店「寿司栄」や「丸一」はいつも混んでいる。だから、そんなこともないはずだ。上に挙げたような名店に、ぜひ内部へ進出してきてもらいたい。名店なら、絶対多くの住民が足しげく通うはずだ。


 ひとりごとNO.24a「Performed」と「Conducted」の違い(2017-3-28)

  

No.242017-3-27)の続編である。音楽演奏の解説で、「…. was performed by Chicago orchestra and George Solti conducted」と言っていた。音楽演奏を行ったのはシカゴ饗であり、それを指揮したのがショルティということだ。つまり、PlayerPerformし、ConductorConductする。研究ではどうだろうか。Playerは研究者であり、Conductorは研究監督者だろう。企業スポンサー研究なら企業がConductorになり、文科省や財団による研究なら文科省や財団がConductorになるのではないか。実際の研究者が主語になれば、それは「Performed by」としたほうがよいように思う。

 

同様の類語として、「Supported(支援された)」、「Funded(資金提供された)」、Sponsored(主宰された)」がある。「Supported by」の支援元は文科省や財団等になり、研究内容については口出しをしないのが原則である。「Funded by」の提供元も同様である。一方、「Sponsored by」の主宰者は研究を主導する者なので、研究内容について口出しをするし、研究全体について責任を有する。研究者が主語になるときには、これらの三つは対象外ということだろう。治験などは企業主導(主宰)で行われるが、研究者主導の研究は「Supported  by」または「Funded by」となる。

 

繰り返しになるが、「Perform」は完遂するというニュアンス、「Conduct」は導くというニュアンスがあるようだ。研究者の場合はどちらかというと「Perform」のほうが近く、資金提供者や組織は「Conduct」が近いと思われる。電車の運転者は「Perform」、車掌は「Conduct」というのも分かる。研究における研究者は「Perform」、主宰者などは「Conduct」となるのだろうが、細かいニュアンスの違いはネイティブでないと分からない。


 ひとりごとNo.24「実施した」は”conducted”か”performed”か?(2017-3-24)

 We performed .」か「We conducted…」、どちらにしようか迷ったことのある人はいるだろう。あるいは、computedcalculatedもどちらがいいか困った人はいるだろう。英語には似た言葉がいくつもある。

 

Conductorは車掌のことだと、新幹線の英語アナウンスで知った。音楽の世界では、Conductorは指揮者のことを言う。語源で考えてみよう。「Con」は「いっしょ」、「duct」は「導く」。したがって、「Conduct」はいっしょに行うといった意味合いがあるようだ。行うとは言っても、目標へいっしょに向かうという意味合いのようだ。

 

Perform」はどうだろうか。Performanceというと、音楽の演奏あるいは演劇の上演を意味する。語源で考えると、「Per」は「完璧に」という意味であり、「form」は「為す」という意味である。したがって、「Perform」はやり遂げるという意味合いがあるようだ。

 

Conduct」は「決められたとおりに」とか、「号令にしたがって」動くイメージがあり、「Perform」は「工夫して」とか、「理想を向かい考えながら」行うイメージがあるように思う。私はネイティブではないので、ニュアンスの違いはぜひ聞いてほしい。

 

Perfect」という語も「Perform」とほぼ同じ意味になるが、「Perfect」はあまり動詞では使われないようだ。「完璧な」という修飾語として使われることが多い。語源的には、「Per」は同じく「完璧に」という意味であり、「fect」は「為す」という意味のようだ。

 

完璧というと、「Thorough」(サラと読む)という語を思い浮かべる人もいるだろう。「徹底的な」とか「綿密な」といった意味がある。もちろん、「完璧な」と訳すことも多い。その語源は「Thoro- or Thor-」のようだ。それに「-ugh or -ough」が付く。この語尾は「enough」や「rough」から想像されるように、修飾語にするだけであまり意味はなさそうだ。ちなみにだが、「Thorough」(サラと読む)と「Through」(スルーと読む)、発音はまったく違うが、同じ語源らしい。「Through」には「通じて」という意味のほかに、「隅々まで」といったニュアンスもあり、「完璧な」とよく似ている。

 

まとめると、どちらも「実施した」という訳語ではあるが、「Conduct」には「決められたとおりに行う」というニュアンスがあり、一方「Perform」には「いろいろ工夫して行う」というニュアンスがあるのではないだろうか。


 ひとりごとNo.23. 安易に新学部を作るべきではない(2017-3-14

 

日本では安易に新しい学部を作るように思う。スクラップ&ビルドで新学部を作ってはいるようだが、珍しい名前の学部が全国に新設されている。英訳したら何をする学部なのかよく分からないだろう。私はそれに大変違和感を持っている。学部というのはやたらめったら、スクラップ&ビルドするものではないと思う。それなりの歴史を踏まえ、社会的に大きな流れがあり、どうしても従来の学部では対応できないときに新設すべきと考える。

 

私の卒業したノースキャロライナ大学で見てみよう。Dentistry, Education, Government, Information and Library Science, Business, Law, Media&Journalism, Medicine, Nursing, Pharmacy, Public Health, Social Work、学部(Schools)はこれだけだ。よく見ると、これらは主に大学院(Graduate)であり、専門職大学院のことのようだ。そのほかの従来型の人文科学・社会科学・自然科学といった学問領域は、「Arts&Sciences」という中に学科(Department)として設けられている。Biology, Chemistry, Physics, Mathematics, Computer Sciences, Statistics, Sports Sciences, Psychologyなどの学科である。上に挙げた学部や学科は、私が留学していた30年以上前からほとんど変わっていない。

 

スタンフォード大学でも、従来型の人文科学・社会科学・自然科学は「Humanities&Sciences」という学部の中に含まれている。その他の学部としては、Business, Environmental Sciences, Education, Engineering, Law, Medicineなどがあるが、すべて専門職大学院のようである。人文科学・社会科学・自然科学といった純粋な学問領域は、米国では「Arts&Sciences」あるいは「Humanities&Sciences」に含まれていると言える。そこで学士号を取得した上で、専門職大学院あるいは純粋学問大学院という学部へ進学するようである。日本では理学部・工学部・人文学部と分かれているが、米国ではそれらはすべて「Arts&Science」に含まれる点がユニークである。そして、医学・薬学・公衆衛生学・法学・経営学・教育学などは大学院のみの学部(School)であり、学士号を取得した上で入学する。

 

このような海外の事例を見ても、学部はそんなにスクラップ&ビルドするものではない。富山大学で都市デザイン学部を申請しているようだが、そのような分野が世の中を変える勢いになっているとは思えない。工学部あたりで学科としてまず立ち上げる。あるいは、学部横断的なプログラムを作ればよい。というより、そうすべきだろう。学部というのは十年以内で変わるべきものではない。会社組織でも、総務部、人事部、経理部、研究開発部、営業部などの骨格は長年変化しない。あまり組織をいじくる会社は危ない会社とも言われている。世の中の機運をよく見極め、新学部というのは設立すべきだろう。看護学部や保健医療学部などはその機運に乗っており、学部にすることは納得できる。

 

最近データサイエンス学部が新設されたが、これも訳が分からない。確かにビッグデータの時代にあってクローズアップされている。人材養成の機運も高まっている。しかしながら、学部を作る必要はあるだろうか。もし欧米であれば、「Arts&Sciences」の中にあるComputer Science学科やStatistics学科の中に、Special programして設けることだろう。日本では差し詰め、情報工学科などの学科にプログラムを用意すればよい。一時の流れ星を、いとも容易く学科・学部として新設するのは好ましくない。組織はあまりいじくらないほうがよい。経営・管理がうまく行っていないと、それは組織が良くないからだという理由で頻繁に編成する。それは当然だろう。しかし、組織は変えないほうが良いに決まっている。経営の鉄則なのだ。


 ひとりごとNo.22統計コンサルティング(2017-3-13)

私が米国へ留学していた30年前、統計コンサルティングという授業のあるのにびっくりした。大学にはコンサルティングセンターがあり、外部からの統計相談に応じていた。トレーラーにオフィスがあったGary Koch教授がセンター長だった。日本に帰ってきて、もちろんそのようなものはなかった。でも、自治医大大宮医療センターに勤めていたとき、いろんな医師から統計相談を自然に受けるようになった。授業もなかったから、仕事といえばそれくらいだったので、熱心に応じたように思う。富山大へ移ってからも、統計相談は適宜行ってきた。あまり記録を付けるのは向いていないため、記録を取っている時期もあったが長続きしなかった。資料整理も雑のため、その記録はどこにあるか不明だ。数年前からまた記録を取り始めた。月に45件の統計相談が来る。相談のみは無料で、データ分析など作業が伴えば共著か有料とさせてもらっている。実際のところ、99%は無料の域に収まっている。有料のケースは0件、共著は多少あったように思う。


医学研究で真に統計サポートが必要なのは、今までの経験からすると1%くらいだろうと思う。99%では統計サポートはいらないと思う。医学部あるいは病院の先生方が1年に合計100論文出版するなら、1論文でしか統計専門家によるサポートは必要ない。そういった組織では統計専門家を常駐する意味はないだろう。統計専門家も年に1件しか仕事がないと、やる気がなくなるだろう。1%というのはプロフェッショナルな統計サポートが必要な割合であり、データ解析を行っている論文は80%以上あるだろう。でも、そのほとんどすべては統計専門家に聞かないと出来ないレベルではない。


インパクトファクターの高い(目安として3.0以上)雑誌となると、専門的な統計サポートの必要度は10%くらいまで上昇すると思う。そういった雑誌では、医学査読と同時に統計査読もあるからだ。かなり、厳しい統計学上の指摘があることも多い。欧米の医学部や病院あるいは国内の一流大学では、当然そういった雑誌へ論文投稿するのが大多数だろう。したがって、統計専門家を専任で置くことは効率的と思われる。年に100論文を投稿すれば平均10論文で統計査読が入り、統計専門家のサポートを必要とする。外部へ委託することもできるだろうが、1論文につき50万円かかれば年500万円になるので、助教レベルなら1名雇うことができる。そういった専門家がいると、組織内で定期的に勉強会を開いてくれるだろうし、研究計画段階(投稿前)から相談したりすることもできる。高インパクトファクターへ年100論文も出すような組織では、統計専門家を1名雇うことはコスパ(CP)に優れる。医学部や病院では自らのアウトプット(Productivity)状況をよく見て、組織内に統計専門家を置くべきかどうか判断してもらいたい。


 ひとりごとNo.21への一部訂正(2017-3-8

 

昭恵夫人が森友学園の幼稚園で講演をされたとき、公用車を使用したのは公私混同と書きましたが、昨日(3/7)のニュースによると公用車は使用しなかったようです。誤ったことを書いたことをお詫びします。公用車は使用しなくても、なぜ要人(公務員)を講演会の場へ同行させたかは疑問です。私たちが週末講演へ出かけるとき、部下を公務で連れて行くでしょうか。私用でスーパーへ行くとき、部下を手伝わせてもよいでしょうか。たとえ、私がポケットマネーで部下にお駄賃をあげても許されることではないでしょう。部下が上司の私用にまで付き合わされては迷惑な話です。

 

もう一つ、昨今の報道から、森友学園は勝手に人の名前を出したりと、詐欺まがいの行為を頻発していたようです。昭恵夫人が勝手に幼稚園の名誉校長にされていたとすれば、これは昭恵夫人にとって迷惑な話でしょう。名誉毀損に当たるかもしれません。もしそうであれば、もちろん私の指摘した利益相反はもちろん当たりません。私たちでも私用で企業にアドバイスなどして、対価も求めずボランティアで行うことはあります。これ自体は決して悪いことではないでしょう。しかし、私たちの名前を利用して、「うちの会社は○○という専門家に聞ける立場にある」とか「○○は当社の外部顧問である」などと宣伝していたら、それは利益相反にあたるでしょう。私たちが何も対価を受け取ってなくても利益相反でしょう。企業はそれにより利益を得るかもしれないからです。私たちは公的な仕事を排除されることもあり、不利になることがあるかもしれません。でも、対価が得られるときはWin-Winな関係となり、両者が合意することもあるでしょう。実際、企業の顧問などに就任している人もいます。私たちは利益相反を認識し、兼業届けを出して行います。昭恵夫人も名誉校長となることの影響を考えたでしょうか。相手方は当然有利になると考えたことでしょう。でも、自分はそのことで不利になるとは考えなかったでしょう。自分は世の中のためになっていると感じていたかもしれません。政治家でも一私企業の役員になっている人もいます。利益相反はあっても、それ自体は悪いことではないように私は思います。誰だって、多少なりの利益相反を抱えているのではないでしょうか。利益相反については隠すのではなく、公言することが大切に感じています。皆さんもよく考えてみてください。


 ひとりごとNo.20 Ph.Dは哲学博士でいいのか? (2017-2-23)

欧米で博士号を取ると、大概はPh.D.Doctor of Philosophy)が与えられる。直訳すると、哲学博士になるが、統計学でも文学でもPh.D.なのだから、哲学博士という和訳はちょっと変に感じる。そのまま、Ph.D.と書いている人も多い。なお、英国ではD.Phil.と書くこともある。学問の世界の最高の資格、博士号には間違いない。

 

医師や薬剤師という専門職では、M.D.Doctor of Medicine, or Medical Doctor)やPharm.D.(Doctor of Pharmacy)が付与されることもある。法務博士(Juris Doctorの略でJ.D.)もよく見かける。同じ薬学でもPh.D.を付与される人がいるが、こちらは研究者(科学者)に対して付される。特に米国では、Ph.D.の代わりにSc.D.Doctor of Science、直訳すると科学博)が付与される大学もある。たとえば、ハーバード大学。これも直訳すると科学博士となるが、わけが分からない。

 

古くは学問というと哲学のことであり、哲学という用語が称号に入ったのかもしれない。あるいは、哲学とはよく考えることであり、それはあらゆる学問の基礎だから、哲学という用語が称号に入ったのかもしれない。よく考えて学術研究(オリジナルな研究)ができるということでの最高位の資格、それがPh.D.ということになる。独創的な研究をする能力がある人を博士と呼ぶようだ。科学博士というのは、いわゆるScientist、科学者を指すのだろう。当然、科学者とは独創的研究ができる人なので博士が普通である。

修士はMasterとも言うように、その分野の学問を修得したことを示す称号である。独創的研究までは保証できないが、専門的知識を駆使することはできることを保証してくれる。その下の学位が学士(Bachelor)であるが、独身男性という意味もある。まだちょっと頼りないという意味合いがあるようだ。独身女性は頼りがいあるのだろう。語源はフランス語で若い騎士らしい。学問を少しかじったけれど、まだ修得の域には達していない水準なのかしれない。


 ひとりごと19: 最下位から2番目という評価 (2017-1-19)

 

国立大学が3つのタイプに分けられたのは約1年前だと思う。地域貢献型、特色型、そして世界競争型の3つに分かれた。そのチョイスは各大学に任され、富山大学は地域貢献型を選択した。と同時に、地域貢献型の大学としても目標設定もなされた。1年たって、その目標が達せられたどうかが評価された。その評価に基づき、運営交付金の削減幅が1週間前くらいに発表された。増加した大学もあるので、増減幅といったほうが正しい。

 

わが富山大学は80.5%、つまり19.5%の削減という惨めな結果だった。これは地域貢献型の大学で最下位だった。全体でも最下位から2番目というお寒い結果だった。最下位は鹿屋体育大学で、78.3%だった。大変情けない結果なのだが、地域貢献型に決めたにもかかわらず、それに向かって号令も出ていないし、成員はそれなりの努力もしていなかったのではなかろうかと反省する。私は統計学の大学院講義を地域の企業へ公開し、講義あたり10名以上の出席があった。しかし、こうした事実は大学へは特に報告はしていなかった。そうした指示は特に来ていなかったからだ。

 

トランプ政権と同じで、大学というのは統治があまりうまくないと思う。悪く言えば、みんなばらばらだ。もっと執行部が方向性を示し、われわれ成員はそれに向かって一丸となって努力し、プロジェクト型のように大学一体で行動する体制を築かないといけない。執行部は方向性を打ち出し、それに向けて体制を整える(組織化する)のが仕事であり、われわれのような成員はそれに向かって仕事をする。執行部の方針に反対なら辞めればよい。学長をはじめとする執行部の権力は強くなったけど、もっとその強さを生かす時期が来ているように感じた。


 ひとりごと18: 人は何のために仕事をするのだろうか? (2016-12-26)

 

電通女子社員の自殺から1年が過ぎた。選りに選って、みなが楽しむクリスマスに自殺するなんて。よほどつらかったのだろう。亡くなった女性の母親は次のように言っている。「人は何のために働いているのですか?」にたいして、「自分や家族のために働くものです」と。家族を食べさせるためにお父さんは働くと言うから、そうだろうと自然に思いがちだ。でも、そうじゃない。「会社など組織のために働くものです」と答える人もいるだろう。一昔前なら、みな会社のために働くという猛烈社員だったと思う。さすがに、最近はそのようなことを言う人は減ってきた。でも、もちろん会社のためにも仕事をしているのも事実だろう。会社が伸びることを願っていない人はいないだろう。長時間残業がなくならないのも、会社に尽くしている証拠だと思う。だからと言って、自分や家族のことまで犠牲にすることはないと思う。いわんや、命を落とすなんてあってはいけないことだと思う。

 

たとえば、会社の会議と家族の入学式が重なったとする。このとき、どちらを優先するだろうか? それは家族の入学式だろう。一方、会社で取引先と商談でプレゼンをするのと、家族で子供の学習発表会が重なったとしよう。今度はどちらを優先するだろうか? これは子供には申し訳ないけど、大切な仕事があるので学習発表会は出られないというのが普通だと思う。このように社会の中で生きていると、複数の事柄が重なったときにはバランスを考えて意思決定をしている

 

蛇足になるが、現代人間は意思決定を迫られる回数が多く、そのたびに自然にストレスがたまっているそうである。意思決定をするというのは、そのときいろんなチョイスの良し悪しをすごいスピードで考えている。だから脳が疲れる。余計なことを何も考えない瞑想(マインドネスと言うらしい)をすると、脳の疲れやストレスが取れて、集中力がアップするらしい。その起源は座禅だったとも言われている。

 

一昔前に比べて、家族へのウェイトが高くなっているのを感じる。会社人間だったのは団塊の世代、いま70歳以上ですでに定年を迎えている人たちだろう。団塊の世代は家族を犠牲にしてでも、会社の仕事に勤しんだものだ。週日はまず夕食を家族でいっしょに食べる家など、ほとんどなかっただろう。私の世代は入れ替えの時期であり、人によってどちら寄りかが半々くらいかもしれない。私は完全な家族主義で、プライベート重視派だ。それが許されるのは、会社でなく、大学という特殊な職場に勤めていたからだと思う。それが許されず、会社人間を余儀なくされている人がまだたくさんいることだろう。断ればいいじゃないかと簡単に言うけど、断れないのが現実。周りが助けてあげられないと、あるいは社会が変わらないと、このような悲劇は繰り返されることに違いない。


ひとりごと17: 大学に欠けている組織は何か? (2016-11-28)

 

大学に欠けている組織は何か? それは外部との交渉を司る渉外部、そして人材の有効活用を司る人事部だろう。これらがないため組織が効率的に動かないし、しかも動きが極めて遅い。超大企業並みのスピードと言える。

 

こうした改革には組織の改変を伴う。企業では人事部が改変の構想を練り、部長および人事担当者で異動を予定している者と面談したりする。机上で履歴書だけ見ていても何も動かない。大学には残念なことに人事部がない。組織改革には人事部長が必要だ。医学部長は人事部長たるか?そこまで各教官がどのような仕事をしているか知らない。どんな性格で何に向いているかを日々考えているだろうか。答えはおのずとNoだろう。しかも、私はそんな任にはないと主張するだろう。では、教育担当理事が人事担当か?それは医学部長よりもひどいだろう。人材の補強などを日々考えているような人は大学にはいない。だから組織改革ができない。そしてスピードが遅いのだろう。改革担当理事を設け、ワーキンググループが全教官と面談をするのが第一ではないだろうか。

 

教官の業績評価も然りだ。実施されているとはいえ、業績評価にはなっていない。細かなリストを何日もかけて埋めていくが、上司や同僚が生の声として上がってくるのが一番確かな情報だろう。上司が面談評価をしてもよいと思うが、大学は自治とかいって、上司に評価されるのを嫌がる教官が多い。これでは内部改革は進まない。競争もない。評価も自己評価のレベルにすぎない。だれかを人事部長に据えないと改革は始まらない。

 

これは蛇足だが、教員業績評価は全学で同様に行うと、業績の多い教官ほど記載する業績が多いため、それだけ時間を要してしまう。業績のない教官は数分ですむが、多い教官は1週間以上も費やすことになる。こんな雑務を減らしてあげないと、教育研究へ費やす時間は確保できない。上司や幹部は部下の雑務を減らすよう努力すべきなのに、逆に増やすようへ逆行しているようだ。仕事をする教官ほど雑務が増えるしかけになっていては、本末転倒なのだ。たいした仕事をしていない教官をなくすことこそが今求められている。論文をずっと書いていない、つまり研究をしていない教官は想像以上にいる。研究をしていないのに研究費は等配分でもらっている。論文を書いていない教官は自主的に研究費を返納すべきではないだろうか。もちろん教育はしているだろうから、教育費は胸を張ってもらったらよい。

 

大学には人事部がないから意味のない雑務を増やし、きちんとした業績評価を行えず、硬直的な組織になってしまう。ついでに言うと、大学には渉外担当もいない。人事部と協力して教官を生かし、自分の大学をもっとPRし、外部資金を獲得しなくてはいけない。交渉には時には接待も必要だろう。大学ファーストで実力なる交渉人を大学も確保すべきではないだろうか。そして大学にも人事部と渉外部を設け、企業並みのスマートさとフットワークを持つことが必要かと思う。


ひとりごと16: 健康食品制度で一言  (2016-8-1)

 

昨年の今頃から機能性表示食品の評価ということに多少携わってきたため、その中で感じたことを5つに整理して述べたい。ちょっと長文ですみません。

 

@    健康食品では安全性と品質の安全で十分ではないか。米国・カナダなどでは効果エビデンスも求めているようだが、そして日本の消費者庁も研究レビューだけ求めているが(効果立証までは求めていない)、日本の消費者は健康食品に対して「安心と安全」を求めているように思う。日米でそもそも習慣の違いはたくさんある。たとえば、車ぶつけ駐車。日本ではぶつけて駐車されたら怒るだろうが、米国では日常的によく見られた。米国で効果エビデンスまで求めるからと言って、日本でも同じにする必要性はない。次に、床座り。床に直接おしりを付けるような日本人はいなかった。これについては、いまの若者で床座りする人も一部いるようだ。日本の消費者の大変は「安心と安全」と求めるも、一部(たとえば医療関係者)では効果まで求める人もいることを示唆する習慣事例であろう。

A    研究レビュー(SR)は健康食品の成分ごとに実施されば十分ではないか。いまは商品ごとにSRを実施しているが(そして届出をしているが)、これは無駄な作業に思えてならない。成分差より個人差のほうがよっぽど大きい。医薬品でもClassごとにSRを行っている。ジェネリック医薬品と先発医薬品は違いという人がいるが、もちろん細かいことを言えば違うのは事実だ。しかしながら、成分・規格などの違いより、個人差(個人ごとに効き方が異なること)のほうがよっぽど大きい。木を見て森を見ずというのと同じだと思う。

B    健康食品のアウトカムは適切ではないものが多い。医薬品と臨床評価と同じアウトカムを用いている例を見受けるが、それで勝負つくなら、健康食品ではなく医薬品になりうる。健康食品なので、それ特有のソフト(主観的であいまい要素のある)なアウトカムでないといけない。表示ラベルも「健やかな眠りをサポートする」など軟らかいことが多い。それなら、アウトカム指標も合わせて軟らかいものが望ましい。ポリグラフィー検査による睡眠時間などはあまり適切とは思えない。むしろ、起床時の眠気や疲労回復感のような主観・あいまいなものが適切なのだろう。このようなアウトカムを評価するのは難しいだろうが、たとえば多数の質問から総合するQOL質問票などがよいかもしれない。

C    健康食品と漢方薬は似ているように感じている。一つは未病への適用である点、もう一つは効果立証が難しい点である。さらにいうと、万人に良いというものではなく、特定の人に効果を示すという点も追加できる。漢方薬では、そこで「証」というものを設定し、「証」に合った人にお勧めするようにしている。それは、Best-case解析や予測モデルなどを使って解明されてきた。健康食品も同様であり、どういった人にお勧めなのかをもっと分析していくとよいように思う。これがEBMの次のパラダイムと目されている、Precision medicine(あるいはPersonalized medicine)と呼ばれる個別化医療という時代の到来にも合致する。健康食品でも、あなたにはこれがお勧めというような戦略ができるよう、ぜひ「証」の解明を進めていただきたい。

D    化学物質や成分は危険だという話がよく出てくる。たとえば、サッカリンは癌を誘導するというものだ。確かに、サッカリンを多く摂取すると癌が発生しやすいのは事実だろう。しかしながら、そうしたデータは小動物に適用したものであり、人間に外挿するととてつもない量を摂取させることが多い。そういうことはありえないので、普段の生活ではまったく問題はない。逆に、体に良いという物質もあるが、それも小動物に大用量与えて得られた結果であることが多い。それを人間に相応な量として使用されているかも注意してみておきたい。すなわち、健康食品に含まれる成分の含有量は十分なものかどうかということだ。危険物質では摂取安全量(これくらい摂取しても安全とされる量)がWHOなどで示されているが、健康食品などについても摂取有効量(これくらい摂取しないと効果は出ないとされる量)が示されるとよいだろう。


ひとりごと15:Biometricsは計量生物学でよいか?2016年6月20日

 

Biometricsの日本語訳が問題になっている。現在は計量生物学だが、これでは生物学のひとつに思われる。Psychometricsは計量心理学、Econometricsは計量経済学と訳し、これらはすっきりしている。どちらも心理学、経済学の一分野だからだ。Behaviometricsは行動計量学と訳すが、これも行動を数量化する点がすっきりする。Biometricsは元々生命現象を数量化する学問だったと思われる。そうであれば生命計量学という訳のほうがよいかもしれない。Bio-は生命や生き物を意味し、Bioinformatics 生命情報学と訳されるためだ。しかし、実態は統計学の一分野なので、統計学という用語が入っているほうがすっきりはする。 

Biometricsと同じような語として、Biostatistics(これは米国圏で使用)、Medical Statistics(英国圏で使用)Clinical BiostatisticsISCBの語源)などが使われている。英語でもいろいろな表現があり、どれも中身は似たり寄ったりだ。そこで、日本語訳もいろいろ存在してもよいと思う。どれでも同じものだと気づけるからだ。 

Biometrics訳を生物統計学にするという意見もあるようだが、それだとBiostatisticsの訳と同じになってしまう。Bio-というのは生物を表すともあるが、本質は生き物のことだと思っている。私だけかもしれないが、生物というとなんだか生物学をイメージしてしまう。生き物というと生物学はイメージしない。Biostatisticsで生物学をイメージされては困る。Bioassayは生物検定と訳しているものの、Bioethics生命倫理と訳すように、生命統計学のほうがよいように思う。邪道かもしれないが、外来語はカタカナのままもあり(バイオ医薬品など)、バイオ統計学も一案かもしれない。

日本語訳の案を示す。もっとも広く使われているのをあえて最後に挙げたのは、私が天邪鬼だからかもしれない。BiometricsBiostatisticsの訳をあえて変えないというなら、もっとも浸透している生物統計学がよいのかもしれない。

英語                            日本語訳(案)                                                             

Biometrics              生命計量学

Biostatistics              生命統計学、バイオ統計学、生物統計学

[生物統計学がもっとも浸透しているが、生物が付くとどうも生物学をイメージしてしまう。訳が面倒ならカタカナというのもありかなと思う。]

Clinical Biostatistics   臨床統計学

                                     [ISCBの元になっているし、臨床でよいかなと思う。]

Medical statistics       医用統計学、医療統計学、医学統計学

[中国では医学統計学とも訳すが、ときに医用統計()とも言うようだ。Medicineは医療、Medical Ethicsは医療倫理学と訳すことから医療統計学もあり。医学統計学は古くから使われていて一番浸透はしているが、医学と統計学が並列になって奇妙に感じる。でも、中国でもそのように訳しているから、漢字的には奇妙ではないのかもしれない。医学心理学、医学気象学などもあるようだ。]


ひとりごと14:2016年6月16日

 ニューイングランド(NEJM)誌で臨床試験シリーズが開始した

 

NEJM誌の201662日号に開会宣言がなされた。統計学からも、James Ware教授とDavid Harrington教授が名を連ねている。シリーズの名称は、”The Changing Face of Clinical Trial”である。臨床試験のデザイン・実施・解釈などに関する課題を扱っていくようである。

 

また、この号を見て知ったことがある。RCT第一号は1948年にBMJへ出版されたものとされていたのが、1931年(Am Rev Tuberc 1931;24:401-35.)が最初のようである。疾患は同じ肺結核であるが、BMJのほうは抗生剤のStrepotomycinを用い、こちらは知られていないSanocrysinという物質のようだ。そういえば、亡くなったTom Chalmersが京都で戦前にRCTを実施したような話を聞いたこともある。掘り返すと、通常いわれているBMJ (1948)以前に、いくつかRCTがなされていたかもしれない。


ひとりごと13:医師・薬剤師・看護師の現状2016年5月26日

 医師は毎年8千人を生産している。何年か前から定員を10%位各大学が増やしたので、増えているようだ。そのせいで実習室のキャパ超えなどで迷惑を被っているのが実情だ。医学部は全国に80校あるようなので、一校当たり100人生産している勘定になる。また、平成26年末の厚労省のデータによると医師は31万人で、男性割合は80%に及ぶ。まだ、女医さんは5人に1人しかいない。ただし、30歳未満の医師では男性割合60%まで下がってきている。富山大学でもどんどん医学科に女子学生が入学している。半々に近いのではないだろうか。

薬剤師も毎年8千人を生産している。これはちょっと驚きだ。薬剤師のほうがもっと多いのかなと思っていた。薬剤師コースは6年年限になり、各大学の定員も減ったが、薬学部を持つ大学が増えたので増加しているようだ。平成26年末の厚労省のデータによると薬剤師は29万人で、男性割合は40%しかいない。医師と比較すると、医師も薬剤師も総数はほぼ同じだが、薬剤師は女性のほうがすでに多い現状だ。

看護師は毎年5万人近くを生産しているようだ。もちろん正看護師である。医師・薬剤師よりも6倍ほど多く生産している。平成26年末の厚労省のデータおよび看護協会のデータによると、看護師は約150万人いて、内訳として准看護師は36万人を占めている。だから、正看護師は114万人程度ということになる。医師・薬剤師よりも毎年6倍多く生産しているが、現役正看護師は4倍弱しかいない。ということは、看護師は資格を有するも辞める人(看護協会に属さないことでカウントされない)が非常に多いことを示唆している。

医師・薬剤師は平均38年勤務=30万人÷0.8万人)と算出されるが、看護師は平均23年勤務=114万人÷5万人)という計算になる。看護師は医師・薬剤師より40%近く早く辞めている現状がみえる。ラフな言い方をすると、看護師の半分はせっかく資格を取ったのに今は仕事をしていないとも言える。

ちなみに男性の看護師、いまはまだ10%未満だが、どんどん増えている現状だ。近いうちに30%くらいまでは増やしたいようだ。富山大学でも増えている感はあるが、まだ10%くらいではないだろうか。医師も薬剤師も看護師も、性別に関係ない世の中に向かっていることを感じる。いや、どの職場でも性差はなくなっていることなのだろう。


ひとりごと12:「Tar Heelはノースキャロライナ出身者・住民のことだけど・・・」2016年4月26日

 今日はTar Heel(ターヒールと呼ぶ)について話す。Tar Heelは米国ノースキャロライナ州の出身者あるいは居住者のことを指す。ちなみに、日本語ではノースキャロライナではなく、ノースロライナと書かれることが多いが、発音からして「カ」よりも「キャ」のほうが近い。クイーズイングリッシュでは「カ」に近いかもしれないけど。私自身ノースキャロライナに5年も住んでいたから、ターヒールはよく聞いた言葉だ。とりわけスポーツのときに使っていたように思う。何と言ってもノースキャロライナにおけるスポーツと言えば、バスケットボールとアメフトだ。チーム名のことをターヒールと叫んでいた。
 

その語源は何なのかなあと考えた。「Tar」とはたばこの「やに」のことだ。日本語でもタールと呼ぶ。たばこはニコチンとタールで特徴付けられるのをご存知だろう。これでぴんときた。ノースキャロライナは「たばこ」の州だ。デューク大学の創設者デューク氏はたばこで大もうけした。日本からもたばこ関係のひとがたくさん来ていたし、「セーラム」というたばこ銘柄は、その州の「ウィンストン・セーラム」から来たに違いない。そうだ、Tar Heelがどうしてノースキャロライナを指すかというと、それはたばこの州だからということかと思った。

 

しかし、それじゃHeelって何だろう。Heel(ヒール)とは「かかと」や「靴底」のことだ。どうして、かかとや靴底が州民を表すのか不思議に思った。そういえば、ゴルフのシャフトのクラブヘッドの軸に近いほうのこともヒールと呼ぶ。ちなみに、軸に遠いほうはトToe)と呼ぶ。つま先のことだ。私も曲りなりに米国ではゴルフをしていたが、よくスライスしていた。ヒールに近い部分にボールが当たるとスライス気味で、逆にトのほうに当たるとフック気味になるらしい。それはともかく、ヒールとはクラブヘッドの根元に当たる。つまり、Heelとは根ざしているという意味なのではないか。そうすれば、タバコに根ざしている人たちということで合点出来た。でも、これは正しい本当のルーツかどうかは私には分からない。

 


ひとりごと11:「地球温暖化は本当か?」2015年8月17日

 くらげがお盆前に出たり、サメが海岸近くまで迫ったりしたそうだ。これは地球温暖化のためだろうか? それとも技術の進歩で見つけやすくなったためではないか? 後者だとすれば、地球温暖化説は嘘であり、単なる情報バイアス(その中でも確認バイアス)にすぎないことになる。どうやったら、どちらが正しいかを見極められるだろうか? 学生諸君にはいろいろ考えてもらいたい。


 同じように、熱中症で死亡例が最近増えてきている事実がある。これも地球温暖化が原因だろうか? 地球温暖化で気温が上昇し、それに伴い熱中症が増えたという説明だ。しかし、そもそも熱中症(hyperthermia)という病名は昔からあっただろうか? Wikipediaをみると、1954年にアメリカで作成された「暑さ指数」が起源のようである。熱射病という言葉は幼少時に使われていた記憶がある。熱射病は熱中症の一種であり、もっとも重症のIII度のようだ。熱射病など「病」と付くのは病名だろうが、熱中症のように「症」は症状を言っているだけで、病気ではないのではないか? そうでもなさそうだ。骨粗しょう症、脂質異常症、などは列記とした保険病名である。熱中症も病名と考えたほうがよさそうだが、ICDコードには載っていないようだ。


 本題へ戻して、熱中症は本当に近年増えているのだろうか? その統計は2007年くらいからしかないようだが、本当に増えているようだ。しかし、それが地球温暖化のためかというとそれは分からない。だんだん熱中症が注目を浴びるようになり、注目度に比例して増えているだけかもしれない。そうだとすると、熱中症増加の原因は地球温暖化にあるという仮説もまた嘘ということになる。これまた情報バイアスの一つである。


 こうした例は過去にもあった。レーガン元大統領が自分はアルツハイマー認知症と公言したことから、アルツハイマー病が統計上へ増えた。長嶋茂雄さんが脳梗塞で倒れられたとき、根っこに心房細動があることが分かった。心原性脳梗塞だったのだ。こちらのほうが太い血管が詰まるため重症化することが多い。そのときから、心房細動の病名が統計上増えたとされる。今では100万人近く心房細動の人がいる。こうした有名人効果ではなくても、テレビなどで報道をよくするため増えることも考えられる。報道効果でも言えようか。要するに、簡単に地球温暖化が原因だと言うのではなく、こうした情報バイアスについても考える習慣を付けてもらいたい。


ひとりごと10:(2015年7月1日)

国会議員の年間所得が昨日公表された。歳費と呼ばれる給与所得は、最低額の議員でも1,700万円くらいのようだ。収入だとどれくらいか。歳費は月938,000円、期末手当が年3回で各4,419,250円のようだから、年収は24,513,730円になる。ざっくり言って、国会議員の年収は2,450万円であり、所得控除額が750万円で、給与所得は1,700万円なのだろう。給与所得は言うなれば手取り額と同じである。相当な収入である。私のような準国家公務員という中の上クラスでも、60歳で給与年収は900万円台である。なんと1,500万円以上も違う。

でもこれだけもらっても、いろいろと経費がかかるのだろうと思う人も多いだろう。しかし、これ以外に文書通信交通費が月65万円、立法事務費が月60万円、2名分の秘書給与費が月60万円程度支給されるようだ。実に、月200万円くらいの活動費が入っているのだ。JRなど交通費は議員パスでもちろん無料である。私のような準国家公務員(教員)に与えられる活動費(交付金)は、年に100万円弱である。月にすると約8万円だから、なんと25倍も違う。


きちんと政治活動している議員さんだと公正に使用していると思うが、あまり活動していないと兵庫県の議員さんのように活動費を浮かせている人もいるだろう。どれだけの活動をしているのか、なかなか国民の目からは見えない。国会で質問している議員ではよく調査しているなと感じることもあるが、まったくメディアに出てこない議員ではどれだけの活動をしているのか皆目分からない。ネットなどを通じて、各議員の活動費の支出状況を簡単に確認できるようにしてもらいたいものだ。


 ひとりごと9:(2015年4月23日)
日本の大学は3つに棲み分けされようとしている。1つは世界と伍するリーダー的大学、2つは特定分野に特化した大学(法科から中央大とか、熱帯医学なら長崎大など)、3つは地域に貢献する大学。地域に貢献する大学を目指すなら、地域が望む授業が必須。いまの大学に企業が聞きたくなる授業があるだろうか? もっと企業の需要にマッチしたカリキュラム(授業)が求められる。
そのためにはまず、色々な業界へアンケート調査をすべきではないだろうか?

              
 ひとりごと8:「中間解析結果を公表してもよいか?」(2015年3月3日)
さる2月25日の新聞報道として、エボラ出血に対する新薬「アビガン」の臨床試験の記事がありました。副見出しは「治験中間結果」でした。社会的に問題となっている臨床試験ですが、中間解析結果を公表してもよいものかと実は思いました。しかも、フランスの有名な国家機関であるINSERMが発表したのでびっくりしました。INSERMとは米国で言うとNIHに相当します。そういった有名な機関がこのような発表したのかと思ったのです。

その中間結果とは何かと読み進むと、80人の患者にアビガンを投与し、約半数いた中等症・軽症患者では死亡率が15%と従来から半減していました。一方、重症患者では死亡率は93%だったようです。

ここまで読むと、これは中間結果ではなく、最終結果ではないかと思ったのです。もちろん、もっと追跡すると死亡率は上がるでしょう。しかしながら、この時点でアビガンの効果についての情報は十分と思えます。そこで私としては安心したわけです。最終結果なら公表して当然だからです。

最後になりますが、科学的には中間解析の結果を口外することは禁じられていますが、政治的に必要なら口外することも許されるのか。これについて各自考えてみていただけたらと思います。

ひとりごと7:「下らない?」(2014年3月20日)
「くだらない」あるいは「くだらん」と言われるとショックを受けるが、この言葉は江戸時代にさかのぼる。京都の品物を江戸へ送るさいに、それは「下りもの」と呼ばれていた。江戸時代はまだ天皇は京都にいたため、京都から離れるとき「下る」と言われていたからである。いまは列車でわかるように、東京から離れる列車が「下り」と呼ばれている。東京中心になったのは明治時代からである。京都の品物は素晴らしいとされていたので、京都から出て行く品物は「下るもの」として、素晴らしい品物を意味した。素晴らしくないものは「下らないもの」(「下るもの」の反対)と言われ、取るに足らないときは「くだらない」(「下らない」とは書かないが)と言うようになった。あらゆる言葉には歴史があり、それを知ることは楽しい。

 ひとりごと6:「社会環境への適応は進化そのもの」(2013年1月17日)
哺乳類は基本的に色が見分けられないらしい。但し、緑と青は見分けられるという。進化の過程でそうなったようだ。緑は陸地であり、青は海である。たぶん、海と陸を区別できないと危険なので、緑と青は識別できるように網膜の視細胞が進化してきたと思われる。猿はさらに赤色を見分けられるらしい。猿の主食は木の実(果物)である。赤い色をしてくると食べごろになる。食べごろを見分けられないと死活にかかわる。こうして猿は赤色を区別できるようになったと思われる。

動物は皆、環境にうまく適合するようへと進化してきた。しかし、環境や社会への適応が難しい人間が増えてきているような気がする。適応障害なんて言われることもある。これは一見すると進化に逆行しているようだ。ここ数十年しか見ていないためだと信じたいが、環境へ適応できないといつかは人類も死滅する運命にあるかもしれない。また、社会へ適応できないといつかは生活保護となるかもしれない。そうした人間が増えていく気がして心配でならない。

 ひとりごと5 :  最近の思い(2011年9月1日)
 少し前だと55歳が定年だったので、その意味で私はすでに定年に達した。企業は今でも55歳で役職定年、希望すれば60歳まで働けるようである。私の大学は65歳が定年なので、あと10年弱あるが、将来のめどがついたら若い方々へ譲りたいと言ってきた。その気持ちは変わりない・・・

 子ども手当は家長の収入が860万円以上は廃止になるようだが、夫婦で働いていて両方とも収入700万円の家庭には子ども手当がつく。どうしてなのだろうか?世帯収入でいくらが上限としてはまずい理由があるんだろうか?何か不思議である。

 家族が亡くなって相続のとき、亡くなった家族の銀行口座を解約し相続しようとすると、亡くなった人の生誕からさかのぼり戸籍変更のたび、証明書を各自治体から取り寄せる必要がある。戸籍を何度も変更している家族だと大変だし、亡くなった家族がどう戸籍を変更してきたかが分からない。そこで、一つ一つたどるなり、問い合わせないと作業ができないこともある。こんな面倒なことをする必要があるのか?確かに家族内で、もめそうなときは、そのような手続きを踏む必要はあるかもしれないが、通常の家族は相続人がだれかは了解済みだろう。

 さてさて、最近の思いをつらつら書いたが、世の中には、無駄と思えること、変だと思えることがたくさんある。多すぎるとだんだん麻痺するのが怖い。職場でもそんな話題をする余裕がない。これではだめで、もっと余裕(遊び)をもち仕事をしないといけないなと感じている。

 ひとりごと4 :  おくすり(2011年2月8日
  2010年は11件もの新薬審査を行いました。2009年は6件だったので倍増です。現プロジェクトをご覧いただければおわかりのように、山のようにプロジェクトをかかえております。プロジェクトで終わるものはあまりなく、ありがたいことに・・・増える一方です。

  今年2011年の折笠教室は、4月から薬剤疫学を勉強する大学院生(女性)が1名入学します。また、学術振興会の中国の先生と日中交流が始まります。

  私事では、お薬を3種類常用するようになりました。何の薬かというと、略語でHTN、HLD、HUDという病気です。おくすりは、審査をしたり、飲んだり、私にとって身近な存在です。

 


ひとりごと3 : 断れない性分(2010年7月10日)
  今年に入ってから新薬審査を引き受ける回数が増えてきたと感じたので、数を数えてみました。以前は年間に4〜5件程度だったのが、今年はすでに6件になります。倍増なので「ポアッソン分布」の正規近似をすると有意な増加とわかります。

  お断りする理由がない限りは引き受ける性分なので、どうしても止まりようがありません。私は長男ですが、何やら長男は仕事を断るのが苦手なようです。これもご奉仕の一つと思って精進します・・・(笑)



ひとりごと2 : 今どきの学生(2010年6月13日

  今どきの学生、授業態度はひどいとか授業崩壊とか、よく耳にする。はたして、本当だろうか。本当に悪いのは学生だろうか。私たち教師にも責任が大きいのではと思う。教師が学生を叱り、また、時には褒めることを真剣にしていないのでは?
  教師が真剣になれば、学生も人の子。ちゃんと分かって、真剣に授業に取り組むはず。決して、あきらめずですわ。



ひとりごと1:受勲と色(2010年5月20日
  毎年春と秋には「受勲」が発表されます。今春は近しい方で2名も受章されたので、少し調べてみました(受章であり、受賞ではない!)。勲章と褒章があるらしいです。勲章は桐花大綬章、旭日章、瑞宝章などがあるようです。

  近しい先生の1人は瑞宝章を受章されました。もう 一人の近しい人は次に述べる紫綬褒章を受章されました。

  褒章は5種類あり、色分けされています。「紫綬褒章」は紫色の綬のついた記章で学術・芸術上の功績に対して与えられるものです。紫色は高貴な色と言われますね。昔から皇帝、王位など高い身分の方が、好んで紫の法衣や衣装をまとっていたようです。

  勲章をいただくには推薦されないといけません。公的機関に長く勤めていた方などは自動的に推薦されるようです。年齢をみると80歳前後の方がほとんどでしたが、推薦される年齢があるのかもしれません。邪心はいけませんが、長生きすれば私も・・という気になりました(笑)

  写真は先日、新湊へ行ったときに見た「大漁旗」です。赤・青・紫・黄色など、色彩豊かな大漁旗が風にふかれてユラユラ揺れているのは、とても心が癒されました。色を見分けることができる人間に産まれてきて良かった・・と感じる一日でした。


                   

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