田村了以海馬体損傷による記憶障害. 老年期痴呆研究会誌14: 12-15, 2007. [査読無]

 

1.緒言

老年期の痴呆症の代表例であるアルツハイマー病は,記憶障害を初発症状とするが,このとき海馬体とその周辺の皮質のみに特有の病理学的変化が認められることが知られている1).また,難治性てんかんの治療を目的とした外科的切除や脳虚血・低酸素により海馬体が両側性に損傷されると健忘症が起こる2, 3.本稿では,海馬体損傷による記憶障害の特徴について述べ,記憶障害モデルラットの薬物治療に関する筆者らの最近の知見を紹介する.

 

2.記憶の分類と海馬体損傷による記憶障害の特徴

記憶は,その保持時間に基づいて,感覚記憶,短期記憶および長期記憶に分けられる4.短期記憶は外界から入った刺激が符号化されない状態で大脳皮質に一時的に保たれた記憶,短期記憶は,感覚記憶よりは持続時間が長いが永続的ではない一時的な記憶,長期記憶は半永久的に持続する記憶である.海馬体損傷患者では,主として長期記憶の形成が障害され,そのため著しい前行健忘を呈する.また,通常,逆行健忘も認められるが,これには時間勾配が見られ,損傷時点に近い記憶ほど重篤に障害されている.

長期記憶は,その記憶内容から,想起意識を伴う顕在記憶と伴わない潜在記憶に分けられる(図15.顕在記憶はさらに意味記憶とエピソード記憶に分類される.意味記憶はいわゆる"知識"であり,エピソード記憶は,時間的,空間的に定位された出来事に関する記憶のことである.潜在記憶はさらに技能や習慣,プライミング,古典的条件付けなどに分類される.海馬体が損傷すると,エピソード記憶が強く障害されるが,潜在記憶は障害されない5

 

3.記憶障害モデルラットとその薬物治療

記憶障害の発症メカニズムやその治療法を研究する上で,適切な記憶障害のモデル動物を用いることは重要である.筆者らは,このモデル動物のひとつとして,一過性脳虚血ラット(脳虚血性疾患モデル)を用いている.ラットの総頚動脈および対骨動脈を閉塞し15分間血流を遮断すると,虚血後数日してから海馬体CA1領域にほぼ限局して神経細胞壊死が起こる(図2:遅発性神経細胞壊死)6.この神経細胞壊死は,脳虚血後の興奮性アミノ酸の過剰放出とそれに伴う細胞内カルシウム濃度上昇に起因する神経細胞のアポトーシスであると考えられている78

一過性脳虚血ラットでは,明らかな場所学習・記憶の障害が見られるが6,その典型例を図3に示してある.この研究では,ラットの視床下部外側野に脳内自己刺激報酬用の電極を埋め込み,次のような課題を行わせた.直径1.5mの円形オープンフィールド内の2個所に報酬場所(直径0.4m)を設定し,ラットがこれら2個所の報酬場所を交互に移動して,各場所内に1秒間以上滞在すれば脳内自己刺激報酬を与えた.この課題では,1セッションを,ラットが50回報酬を獲得するか,または,10分間経過するまでとした.ラットにとって,オープンフィールド内には報酬場所を直接示す空間的な手がかりはないので,効率的に報酬を獲得するためには,オープンフィールド外の視覚や聴覚刺激を手がかりとして,報酬場所の間を最短距離で(直線的に)往復しなくてはならない.正常および脳虚血ラットともに,この課題の学習開始初期には,オープンフィールド内を一定の軌跡を描くことなくランダムに移動し,そのため,効率的に報酬を獲得できずに10分間が経過して課題を終了した(図3AaBa1日目).正常ラットでは,訓練が進むにしたがって報酬場所間を直線的に往復し,効率的に報酬を獲得できるようになった(図3Ab5-15日目).しかし,脳虚血ラットでは,オープンフィールド内での直線的な移動は見られず,むしろ,外周壁に沿った移動(円形の軌跡)が目立ち,効率的な場所学習はできなかった(図3Bb5-15日目)

さらに筆者らは,この実験系を用いて種々の記憶障害治療薬の評価を行ってきたが,最近われわれは,NC1900(pGlu-Asn-Ser-Pro-Arg-Gly-NH2,日本ケミファ)の治療効果について調べた.バゾプレシンが記憶に重要な役割を果たしていることは以前から示唆されているが,NC1900はバゾプレシン類似の構造を有し,脳機能改善薬として開発された。脳虚血負荷後2週間以上経過後,NC1900を連日投与(1mg/kg, po)しながら場所学習課題を訓練すると,海馬体CA1領域の神経細胞がほとんど脱落しているラットでも(図4A),正常ラットに類似した典型的な直線往復移動を行うようになり,場所学習の改善が認められた(4B)

 

4.結語

超高齢化社会に移行しようとしているわが国では,老年期の痴呆症患者の治療やケアが社会的な最重要課題の一つとなっている.こうした中で,本稿で述べたような記憶の障害とその治療に関する研究は,臨床応用のための基礎データとして大いに役立つことが期待できる.

 

文献

1. Van Hoesen GW, Damasio AR: Neural correlates of cognitive impairment in Alzheimer’s disease.  In Handbook of Physiology (Mountcastle VB ed.), Section 1: The Nervous System, Vol V Higher Functions of the Brain, Part 1, 871-898, Am Physiol Soc, 1987.

2. Scoville WB, Milner B: Loss of recent memory after bilateral hippocampal lesions.  J Neurol Neurosurg Psyhciatry 20: 11-21-1957.

3. Zola-Morgan S, Squire LR, Amaral DG: Human amnesia and the medial temporal region: enduring memory impairment following a bilateral lesion limited to field CA1 of the hippocampus. J Neurosci 6: 2950-2967, 1986.

4. Squire LR: Memory and Brain. New York.  Oxford University Press, 1987.

5. Squire LR, Zola-Morgan S: The medial temporal lobe memory system.  Science 253: 1380-1386, 1991.

6. Tamura R, Nakada Y, Nishijo H, et al: Ameliorative effects of tamolarizine on place learning impairment induced by transient brain ischemia in rats.  Brain Res 853: 81-92, 2000

7. Fagg GE: L-Glutamate, excitatory amino acid receptors and brain function. Trends Neurosci 8 : 207-210, 1985.

8. Mitani A, Yanase H, Sakai K, et al.: Origin of intracellular Ca2+ elevation induced by in vitro ischemia-like condition in hippocampal slices. Brain Res 601: 103-110, 1993.

 

図の説明

1 長期記憶の分類

2 一過性脳虚血による遅発性神経細胞壊死

正常ラット(A)および脳虚血ラット(B)の弱拡大および強拡大の組織所見.

図3 一過性脳虚血ラットの場所学習障害

正常ラット(A)および脳虚血ラット(B)の場所学習課題訓練開始後1510,および15日目の移動様式.大きな円:円形オープンフィールド,オープンフィールド内の2個の円:報酬領域,報酬領域内の●:脳内自己刺激報酬獲得地点.

4 一過性脳虚血ラットの場所学習障害に対するNC1900の改善効果.海馬体CA1領域の神経細胞が脱落していても(A),課題訓練時にNC1900を投与することにより,効果的な直線往復移動を行うようになった(B)