研究内容

現在の研究内容

 脳科学の究極の目標は、人間の精神の営みを理解することです。

 では、人間の精神の営みのベースは何でしょうか?いろいろあると思いますが、 私たちは、それらの中でも特に重要なものがふたつあると考えています。 ひとつは「意識」です。「意識」は、私たちの現在の研究の対象ではないので、 ここではこれ以上触れません。
 もうひとつは、「知識や概念」を形成して持っているということです。 私たちの精神の営みのベースには知識があります。たとえば、私たちが何か考える時、 思考のベースには過去に獲得した知識があり、それを照合しながら新しい事柄を 考えていきます。創造性も同じです。過去の知識がベースになっています。
 もし記憶することができなかったり、新しいことを覚えても忘れてしまったりして 知識を形成することができなければ、精神的な営みもできません。 そういう意味で、「記憶」は人間の精神の営みの一番ベースにあるのです。
 このように考えてみれば、記憶のメカニズムを明らかにすることは、 精神の営みを解明するための第一歩ということになります。

 


 現在進行中の研究プロジェクトは、次の3つです。

1.記憶アップデートの分子・細胞メカニズム

2.細胞集団の活動動態解析と回路モデルに基づいた記憶統合プロセスの解明

3.記憶再固定化システムをモデルとした記憶ダイナミクスの理解


1. 記憶アップデートの分子・細胞メカニズム

 知識は、入ってきた情報を正確に記憶するだけで形成されるわけではありません。 新しい情報が入ってきたときに脳は古い記憶情報と照合し、必要に応じて 古い記憶と新しい記憶を連合したりして書き換えます(記憶のアップデート)。 「アップデート機構」は外的変化に対する柔軟な適応に必要であり、 知識の形成を通じて精神活動の基盤となります。

 わたしたちはげっ歯類をモデル動物として取り上げ、書き換えを3つのタイムスパン、 すなわち、 【1】秒~分~時間の間隔で入ってくる2つの情報の間の相互作用による書き換え、 【2】日~月の間隔で入ってくる情報間の干渉による書き換え、 【3】週~月単位で起こる「記憶が保存される脳部位の変化」による書き換え、 に分けて記憶がアップデートされるメカニズムを解析し、それぞれに共通する原理を明らかにし、 その全体像の解明を目指しています。


2. 細胞集団の活動動態解析と回路モデルに基づいた記憶統合プロセスの解明

概念あるいは知識が形成されるプロセスでは、一個一個の記憶を覚えて、 それらを統合していきます。実験に加えて数理モデルを駆使して、 記憶の統合メカニズムを明らかにすることを目指しているのが、このテーマの特徴です。

ここでは、異なる経験による複数の記憶情報を、関連する記憶として統合させ 新しい意味を持った記憶として貯蔵するという記憶の統合プロセスに注目し、 その神経回路レベルのメカニズムを、ニューロン集団の活動動態に焦点を当てた 解析と数理モデルの構築を通して解明します。 また、記憶を人為的に自由自在に操ることができる技術を開発し、 数理モデルを実験的に検証することを目指しています(下図)。

数理モデル



3. 記憶再固定化システムをモデルとした記憶ダイナミクスの理解

 記憶は脳内に固定化され蓄えられたあとも、脆弱化・再固定・連合・減弱・転送などの プロセスを経て質的に変化します(下図)。 多くの記憶は想起に伴い脆弱化しますが、その後、再固定化のプロセスを経て 再び安定した記憶になります。 記憶の脆弱化・再固定化は、その後に新しく獲得した記憶と照合して記憶情報を 動的にアップデートするためのキープロセスであると想定されていますが、 そのメカニズムには不明な点が多々あります。

そこで、このプロジェクトでは、(1) 記憶の細胞レベルのモデルである海馬の 長期増強(LTP)における神経活動に伴うシナプス伝達の脆弱化・再固定化を 解析できるin vivoの系を用いて、シナプスレベルにおけるそれらのメカニズムを 分子・細胞レベルで解析するとともに、(2) 得られた知見を記憶の脆弱化・ 再固定化に当てはめて、行動レベルの解析を行っています。脆弱化・再固定化 メカニズムは、オートファジー系の関与なども含めながら解析しています。

数理モデル

これまでの研究内容

(文中の文献は、PubMedの論文要旨にリンクしています。)

 私たちの記憶研究は、井ノ口が米国コロンビア大学医学部のEric Kandel教授 (2000年ノーベル賞受賞者)の研究室での研究生活を終え、 1993年7月に帰国してから始まりました。その時の問題意識は「分子の窓から 記憶を覗いてやろう」でした。すなわち、長期間保存される記憶のメカニズムを 分子レベルから解き明かしたいというのが研究の動機でした。この問題意識は、 「分子と神経回路の窓から記憶を覗いてやろう」へと発展してきています。

 

 

1.遺伝子制御と記憶

図1 記憶/ LTPとタンパク質合成の関係

図1 記憶/ LTPとタンパク質合成の関係



 記憶のタイムスパンには少なくとも2つの相があります。 数分から数十分程度で減衰する短期の相(短期記憶、STM)と、数時間から数年、 さらには一生覚えている長期の相(長期記憶、LTM)です。長期記憶が短期記憶と 異なる最大の点は、それが神経細胞における遺伝子の発現やタンパク質の合成を 必要とすることです(図1)。


 私たちは、長期記憶の成立に重要な分子を明らかにすることを最初の目的と定め、 ラットやマウスなどのげっ歯類を用いて、長期記憶や長期シナプス可塑性(L-LTP)に伴い 発現が変動する遺伝子群を網羅的に探索することから研究をスタートしました。 このようにして同定された遺伝子の機能は、転写制御・細胞骨格制御・細胞外 リガンド・足場タンパク質など多岐にわたっていました( Inokuchi, K., et al, FEBS Lett 382, 48-52, 1996 ; Inokuchi, K., et al, Biochem Biophys Res Commun 221, 430-436, 1996 ; Kato, A., et al., FEBS Lett 412, 183-189, 1997 ; Kato, A,. et al., J Biol Chem 273, 23969-23975, 1998 ; Matsuo, R., et al., J Neurochem 74, 2239-2249, 2000 ; Yamazaki, M., et al., J Neurochem 79, 192-199, 2001 ;   Matsuo, R. et al., Biochem Biophys Res Commun 289, 479-484, 2001 )。 これら遺伝子のうちのいくつかについて、長期記憶の形成に重要な働きをしていることや、 長期シナプス可塑性を調節していることなどを明らかにしてきました( Ikegami, S. & Inokuchi, K. Neuroscience 98, 637-646, 2000 ; Ikegami, S., et al., Mol. Brain Res 41, 183-191, 1996 ; Inoue, N., et al., Mol Brain, 2, 7, 2009 )。

 

 

2. シナプス形態の可塑性と記憶

それらの遺伝子の一つがコードするアクチビンが、海馬のL-LTPの持続に不可欠の 働きをしていることを見出しました。また私たちは、アクチビンが脳の神経細胞の シナプス形態を制御することを示しました( Shoji-Kasai, Y., et al., J Cell Sci 120, 3830-7, 2007 ; Ageta, H., et al., PLoS ONE 3, e1869, 2008 )。さらに、L-LTPに伴い樹状突起スパインのF-アクチンが増大し、これがシナプス 可塑性の維持に必要であることを明らかにしました(図2)( Fukazawa, Y., et al., Neuron 38, 447-460, 2003 )。

図2 長期記憶とシナプス形態の可塑性
図2 長期記憶とシナプス形態の可塑性



これらの成果を基に、 私たちはL-LTPや長期記憶の持続メカニズムの1つの経路として「LTPの誘導/記憶の 形成 → アクチビン遺伝子の発現 → スパインF-アクチンの増加 → シナプス形態の変化 → L-LTP/長期記憶の持続」というモデルを提唱しています(図3)。

図2 長期記憶/L-LTP形成の分子機構のモデル
図3 長期記憶/L-LTP形成の分子機構のモデル

さらに、tet OFFシステムを応用したトランスジェニックマウスを作製し、脳の アクチビンが恐怖記憶の形成にどのような機能を果たしているのかを解析しました。 その結果、脳のアクチビン機能を人為的に阻害することで、いったん強固に形成 された恐怖記憶を減弱することが可能であることを明らかにしました( Ageta H., et al., Learning and Memory 17, 176-185, 2010 )。PTSDの 根本的治療法の開発に展開できる研究成果です。このように本研究は記憶の分子 機構を明らかにするという基礎研究としての貢献だけでなく、精神神経疾患の予防・ 治療法の開発につながることも期待されます。

 

 

3. シナプスタグと記憶

 神経細胞にはシナプスが1細胞当たり数千~数万個あり、他の神経細胞と情報の やり取りをしています。一つひとつの神経細胞は多くの記憶に関わっていますが、 記憶ごとに異なるシナプスを使い分けることで、個々の記憶を混同せずに正確に 保存していると考えられています。長期間保存される記憶では、その記憶に対応 する特定のシナプスに細胞体から記憶関連たんぱく質が配達されることでその シナプスの働きの変化が持続し、記憶が正しく長期間保存されると考えられます。 ところが、1細胞あたり数多く存在するシナプスのうち、どのような仕組みで 特定のシナプスのみに記憶関連たんぱく質を配達し、働かせているのかは分かって いませんでした。これを説明するためにシナプスタグ仮説が提唱されていますが( Frey and Morris, Nature, 385, 533-536, 1997 )、タグの実体が不明のうえ、 本当にそういう仕組みがあるのか実証されていませんでした。

 この仮説によれば、細胞体で合成され細胞内を非選択的に拡散してきた記憶関連 たんぱく質が、入力を受けたシナプスに生じた何らかの生化学的な変化(シナプス タグ)にトラップされることにより最終的な局在が決まります。ただしこの仮説は あくまで電気生理学的な実験結果を説明する一つの考えに過ぎません。従って、 シナプス選択的な輸送の分子機構の解明には、シナプス活動に応答して細胞体で 合成されたのちに活性化シナプスに選択的に輸送されるタンパク質を同定し、 それら分子の挙動を明らかにする必要があります。
 海馬のL-LTPに伴い細胞体で発現が誘導されるタンパク質として私たちが単離した Vesl-1S (Homer-1a)は、代謝型グルタミン酸受容体と結合するなどポストシナプス 部に局在するタンパク質で、長期記憶の形成に重要な役割を果たしています( Kato, A., et al., FEBS Lett., 412, 183-189, 1997 ; Kato, A., et al., J. Biol. Chem., 273, 23969-23975, 1998 ; Inoue, N., et al., Mol Brain, 2, 7, 2009 )。

 私たちは、記憶関連たんぱく質Vesl-1SにGFPを融合させることで、神経細胞内に おける記憶関連たんぱく質の局在を可視化しました。この分子の挙動を解析した結果、 記憶関連たんぱく質は細胞内全てに配達された後、その時に使用されていたシナプス だけに取り込まれることが明らかになり、仮説が正しいことが実証されました。 さらに、シナプスタグの実体は、シナプス後部のスパインの入り口にあるゲートの 開閉であることを発見しました(図4)( Okada, D., et al., Science (Research Article), 324, 904-909, 2009 )。

 この成果により、心的外傷後ストレス障害(PTSD)治療法の開発に大きく 前進するとともに、連合記憶に問題がある精神疾患の治療法の開発、脳卒中などの 後のリハビリテーション効率の改善、脳型記憶素子の開発など多くの応用研究が 発展するものと期待されます。

図4 シナプス選択的局在のメカニズム
図4 シナプス選択的局在のメカニズム

 

 

4.生後脳の神経新生と恐怖記憶の処理過程

4-1 記憶の海馬依存性と生後脳神経新生

海馬は学習記憶に重要な脳領域の1つです。ヒトを含む多くの動物種において、 記憶獲得後、ある種の記憶の想起は、最初は海馬の働きを必要としますが、 時間経過に伴い徐々にその海馬依存性が減少します。そして数週間後には海馬の 働きを必要とせずに想起できるようになります。すなわち、時間経過とともに 記憶の依存する脳領域が移行するのです。しかし、どのような仕組みで記憶が 海馬依存的な状態から海馬非依存的な状態へとなるのかについては、これまで 分かっていませんでした。また興味深いことに、海馬では脳の発生が終了した 大人においても、新しい神経細胞が絶え間なく生産され続けていることが、 ヒト、サルを含む多くの動物種で分かっています。
 私たちは海馬における神経新生が記憶形成に果たす役割に着目し、 物理的あるいは遺伝子改変技術によって海馬の神経新生が障害されたマウス、 対照的に神経新生が促進されたマウスを用いて、恐怖記憶獲得後の記憶処理過程に おける神経新生の役割について検討しました。その結果、海馬における継続的な 神経新生の程度に依存して、恐怖記憶が海馬依存的な状態から非依存的な状態へと 移行する速度が抑制されたり、逆に加速されたりすることが明らかになりました(図5, 6) ( Kitamura, T., et al., Cell 139, 814-827, 2009 ; Inokuchi, K., Curr Opin Neurobiol 21, 360-364, 2011 ; Kitamura T. and Inokuchi K., Molecular Brain 7, 13, 2014 )。
 この成果は、海馬の神経新生を適切に制御することによって、恐怖記憶を保存する 脳領域をコントロールできる可能性を示唆しており、トラウマ記憶が原因となる 心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの精神疾患の新たな予防法・治療法開発 への展開が期待できます。

図5 神経新生による恐怖記憶の海馬依存性の制御
図5 神経新生による恐怖記憶の海馬依存性の制御





 野生型マウスでは、28日後の記憶想起は海馬の働きを必要としなかったが、 神経新生の程度が低下したX線照射マウスやFSMマウスでは28日記憶の想起は 海馬の働きを必要とした。


図6 神経新生による恐怖記憶の海馬依存性の制御
図6 神経新生による恐怖記憶の海馬依存性の制御

 野生型マウスでは、7日後の記憶は部分的に海馬依存的であるが、豊富環境下で 飼育され神経新生が促進されたマウスでは7日後の記憶は海馬非依存的であった。


4-2

生後脳の新生神経細胞は、新たなシナプス結合を作ることで既存の神経回路網に組み込まれ、 海馬の恐怖記憶の消去に関わっていると想定されるため、脳活動が新生神経細胞の 既存回路への組み込みにどのような影響を与えるのかを解析しました。 そのために、レトロウイルスベクターによる新生神経細胞の特異的標識法と in vivo LTP誘導法を組み合わせた技術を確立しました。 その系を用いた解析の結果、新生後12日程度の若い神経細胞が脳活動に大きく反応し、 その後の神経回路網への組み込みが促進されることが明らかとなり、 この時期の若い神経細胞が、海馬からの恐怖記憶の消去に関わっていることが示唆されました(図7) (Ohkawa et al, 2012, PLoS One)。


図7 生後12日目にLTPが誘導されると、
その新生ニューロンの樹状突起スパインの数が増大し大きくなる
図7 生後12日目にLTPが誘導されると、その新生ニューロンの樹状突起スパインの数が増大し大きくなる


4-3 記憶の詳細さと海馬依存性

記憶は時間経過と共に情報のディテールを失います。 エピソード記憶の詳細さと海馬依存性の間に関連があるか否か、すなわち、 記憶が海馬依存的な状態の時は詳細さを保っていますが、海馬非依存的になると 共に詳細さを失っていくのか否かを解析しました。 行動実験課題として、マウスの場所認知記憶課題を新しく開発しました。 この課題では、1日後の記憶想起は海馬依存的ですが、28日後の記憶想起は 海馬の機能を必要としませんでした。 また、28日後でも、場所認知記憶は詳細さを保ったまま維持されていました。 さらに、28日後に海馬機能を阻害した状態で記憶想起させても、詳細さを 保ったまま記憶が想起されました。このことから、記憶想起が海馬非依存的に なっても記憶の詳細さは保たれていることが明らかとなりました (Kitamura T., et al., Mol Brain, 2012)。

 

5.シナプス可塑性の制御とオートファジー

タンパク質分解系のオートファジーが、神経活動に伴い神経細胞で活性化され、 AMPA型グルタミン酸受容体の分解を誘導することを発見しました。 また、オートファジーの活性化が、化学長期抑圧(chemical LTD)に 密接に関わっていることを見いだしました(図8) ( Shehata M., et al., J Neurosci, 2012 ; Shehata M. and Inokuchi K., Reviews in the Neurosciences, 2014 in press. )。

 図8 化学LTDによるオートファジーの
活性化とAMPAグルタミン酸受容体の分解
図8 化学LTDによるオートファジーの活性化とAMPAグルタミン酸受容体の分解
(A)化学LTDによるオートファジー活性化に関与する細胞内シグナル系
(B)化学LTDにおけるAMPA受容体分解へのオートファジーの関与