妊娠前後の抗菌薬使用と妊娠初期~中期の心理的苦痛の関連を解明-子どもの健康と環境に関する全国調査(エコチル調査)9万4千人のデータより-
背景と目的
妊娠期および産後は、ホルモン変化、身体的負担、生活環境の変化などが重なることから、女性のメンタルヘルスが大きく揺らぎやすい時期であることが知られています。妊娠中や産後にみられるうつ症状や不安症状は、母親自身の生活の質を低下させるだけでなく、母子関係の形成、育児行動、さらには子どもの情緒・行動発達にも影響することが、国内外の多数の研究で報告されています(Matsumura et al., 2025, JAMA Network Open, 8, e2540907 など)。
一方、妊娠中は免疫機能の変化や泌尿器・生殖器系の易感染性により、細菌感染症のリスクが高まることから、抗菌薬は妊娠期に最もよく処方される薬剤の一つです。しかし、近年の研究で、抗菌薬(一般に“抗生物質”と呼ばれる薬を含む)が腸内細菌叢を変化させ、それが脳機能や精神状態に影響を及ぼす可能性が指摘されているにもかかわらず、妊娠前後の抗菌薬使用が妊婦のメンタルヘルスにどのような影響を与えるのかについては、十分な科学的知見が蓄積されていませんでした。
そこで本研究では、全国規模の出生コホート「エコチル調査」に参加した9万人以上の妊婦データを用い、妊娠判明前後の1年間における抗菌薬使用状況を時期別に把握し、それらと妊娠初期〜中期の心理的苦痛との関連を明らかにすることを目的としました。
研究概要
本研究は、環境省の「エコチル調査」に参加した94,490人の妊婦を対象とした解析です。
●抗菌薬使用パターン(研究参加時点から遡った1年間)
- 使用なし
- 妊娠判明前または妊娠判明後のいずれか一方で使用
- 両期間で使用
●心理的苦痛の評価
妊娠初期〜中期にケスラー心理的苦痛尺度(K6質問票:「ちょっと詳しく」参照)を用いて心理状態を評価しました。
K6スコアが5点以上を「中等度」、13点以上を「重度」の心理的苦痛と定義しました。
●解析方法:
15地域をランダム効果とする階層ベイズ多項ロジスティック回帰を行い、関係性を修正オッズ比(aOR: adjusted odds ratio)及び95%信用区間(95% Crl: credible interval)として評価しました(修正オッズ比:「ちょっと詳しく」参照)。
妊娠判明前後の2つの期間に分けて抗菌薬の使用情報を収集し、心理的苦痛との関係を検証した点が特徴です。
主な成果
抗菌薬を使用していない群を基準(aOR = 1.00)とすると、
●中等度の心理的苦痛
どちらか一方の期間で使用:aOR 1.12 95%Crl(1.07–1.16)
両期間で使用 :aOR 1.22 95%Crl(1.08–1.38)
●重度の心理的苦痛
どちらか一方の期間で使用:aOR 1.07 95%Crl(0.97–1.19)
両期間で使用 :aOR 1.50 95%Crl(1.15–1.94)
使用期間が0→1→2となるほど心理的苦痛を感じていると回答した人が多くなる用量反応的(dose–response-like)なパターンが認められました(下図参照)。

うつ病・不安障害・自律神経失調症・統合失調症の既往歴、15の地域センター(ランダム効果)で調整した
考察と限界
本研究では、妊娠前後の抗菌薬の使用が、妊娠初期〜中期の心理的苦痛と関係している可能性が示されました。使用した期間が多いほど心理的苦痛を感じる人が増えるという結果は、国内外の先行研究とも同じ方向性であり、今回の大規模データでも同様の傾向が確認できたことは重要です。
こうした関連の背景として、抗菌薬が「腸内細菌叢」を変化させることが関係している可能性があります。腸内環境は心の健康とも深くつながっていることが近年わかっており、細菌のバランスが乱れることで、気分が落ち込みやすくなったり、不安が強まりやすくなったりする仕組みが報告されています。妊娠期はもともと心の調子が揺らぎやすい時期であるため、その影響がより大きく出る可能性があります。ただし、あくまで一つの仮説であり、本研究では腸内細菌との関連を検証したわけではありません。
一方で、本研究には限界もあります。使用された抗菌薬の種類や量、処方された理由(感染症の重症度など)までは細かく把握できていません。また、抗菌薬の使用歴は本人の記憶に基づくため、完全に正確ではない可能性があります。さらに、心理的苦痛を測定するK6質問票は便利なスクリーニング尺度ですが、医師による診断とは異なります。
それでも、本研究は日本全国の大規模データを用いて、妊娠前からの抗菌薬使用とメンタルヘルスの関係を初めて体系的に示したものであり、妊娠前からの健康管理(プレコンセプションケア)の重要性を考える上で大きな示唆を与える結果といえます。
意義と展望
今後の展望としては、以下の課題が挙げられます。
- 抗菌薬の種類や投与量ごとの影響の精査
- 腸内細菌叢を組み合わせた生物学的研究
- 感染症そのものの影響を補正した因果推論モデルの深化
- 妊娠前からの健康管理(プレコンセプションケア)における抗菌薬使用の適正化指針の検討
妊娠前からの支援を含め、妊婦のメンタルヘルスを守る多層的な対策が求められます。
なお、抗菌薬は細菌感染症の治療に不可欠であり、医学的に必要な場面で適切に使用されている薬剤です。本研究は抗菌薬の使用を否定するものではありません。一方で、国内外では不必要な予防的投与や“念のため”の処方が課題とされており、抗菌薬の適正使用(Antimicrobial Stewardship)が求められています。本研究は、妊娠前からの抗菌薬の“適正な使い方”を考えるうえで参考となる知見を提供するものです。

この研究成果は、Springer Nature社が発行する公衆衛生学の専門誌「BMC Public Health」に2026年3月12日(オンライン先行掲載:2026年1月10日)に掲載されました。
エコチル調査富山ユニットセンター
2026年3月
ちょっと詳しく
ケスラー心理的苦痛尺度
(K6質問票)
抑うつや不安といった、産後うつとも関連の高い「非特異的な心理的苦痛」を測定するためにケスラー博士によって開発された質問票です。名前の通り6項目の質問から構成されており、4点=いつも、0点=全くない、といった5段階の選択肢で回答します。苦痛が高いほど得点が高くなるように作られています。
修正オッズ比
修正オッズ比とは、年齢や生活習慣などの影響を統計的に調整したうえで、特定の要因がある場合に事象が「どれくらい起こるかの見込み」を示す指標です。値が 1.0 なら基準となるグループとの差はなく、1.5 なら「その要因をもつグループではその事象(本研究では心理的苦痛)が 1.5 倍起こりやすい」ことを意味します。1 未満なら、要因をもつグループのほうが起こりにくいことを示します。修正オッズ比は個人の予測ではなく、集団全体の傾向を示す統計指標で、医学系研究で要因と結果の関係を適切に理解するために広く使われています。